現在の位置

向日市と長岡宮跡

更新日:2015年11月2日

地図のオレンジ色に塗られた箇所は向日市域

(画像)向日市と長岡宮跡地図

長岡京は、延暦3年(784)に平城京から遷都され、延暦13年(794)に平安京へ移るまでの10年間、乙訓の地に営まれた都です。

長岡京は、政治や儀式を行う大極殿や朝堂院などの官庁街と天皇の住まいである内裏からなる宮域と、貴族や都市住民の居住域である京域に分けられます。

中心部の宮域はすべて現在の向日市域にあり、東西約1.0キロメートル、南北約1.6キロメートルの大きさで、周囲を築地大垣で囲まれていました。

京域は、上図のように朱雀大路を中心に大路小路によって規則正しく区画されており、東西4.3キロメートル、南北5.3キロメートルに及ぶ整然とした都でした。

長岡京には、位を有する役人が約750人住んでいました。それに対して、下級役人や日雇いで役所の雑役に従事する人々は、約7,000人もいたといわれます。京内には、このような役人の他に寺院の僧尼、専門的技術者、諸国から駆り出された農民など、あわせて5万人以上の人々が住んでいたといわれます。

長岡京はわずか10年の都でした。しかし遷都の計画は2年以上の歳月をかけて周到に、しかも秘かに練られました。なぜなら政権基盤の弱い新政権にとって莫大な経費と労働力を必要とする遷都は、きわめて危険な決断だったからです。

新しい都の場所として選ばれたのは、水陸交通の便利な乙訓の地でした。都の建設には、まず北西の丘陵を削り、南東の谷や低地を埋め立てることから始めねばならず、幾多の工夫と労力が必要でした。にもかかわらず難波宮の建物を解体し、淀川を使って運ぶという方法を用いて、わずか6カ月の猛スピードで宮域中心部を造り上げたのです。

長岡京が10年しか続かなかった理由についてはいろいろの説があります。1.造都責任者の藤原種継の暗殺、2.早良親王の憤死などによる怨霊説、3.桂川と小畑川の予想外の氾濫による洪水説、などなど…。みなさんはどのように考えられるでしょうか?

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