向日市の歴史に関わる主な人物

更新日:2018年4月16日

継体天皇(けいたいてんのう) 第26代天皇

継体天皇(けいたいてんのう) 第26代天皇

 允恭天皇39年(450年)頃から継体天皇25年(531年)頃

 「日本書紀」によれば、武烈(ぶれつ)天皇8年(506年)に武烈天皇が後嗣(こうし)を定めず崩御したため、越前にいた応神天皇五世の孫の男大迹王(おおどのおう)を迎えました。男大迹王は、河内の樟葉に宮を置き、継体天皇元年(507年)に即位しました。その後、山背の筒城(京田辺市付近)や弟国(本市、長岡京市付近)に宮を移し、即位20年後に大和に入り、磐余玉穂宮(いわれたまほのみや)を築きました。

 天皇は、淀川の水運の便を考慮し、その流域に宮を置いたといわれています。これは、朝鮮半島の任那(みまな)における失地回復の救援軍の派遣や、これを遮ぎって起こした筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)の反乱を鎮めるなどに地の利があったためと考えられています。

 本市の物集女車塚古墳は、横穴式石室の形態や出土遺物の特徴から、継体天皇の弟国宮を支えた豪族のものと推測されています。

桓武天皇(かんむてんのう) 第50代天皇

桓武天皇(かんむてんのう) 第50代天皇

 天平9年(737年)から延暦25年(806年)3月17日

 白壁王(のちの光仁天皇)の第一王子、山部王と称されました。式家の藤原百川(ももかわ)らの政争により、宝亀44年(773年)に皇太子に、天応元年(781年)には光仁天皇から譲位されて天皇となりました。

 平城京における肥大化した仏教各寺の影響力を牽制し、また天武天皇流が断絶し天智天皇流に皇統が戻ったことなどから、秦氏の影響力が強く、水陸交通の便が良好な、本市を中心とした山背国乙訓郡長岡邑に遷都しました。

 天皇は、延暦10年(791年)に坂上田村麻呂を征夷大将軍とし蝦夷征伐を、延暦13年(794年)に藤原継縄(つぐただ)・菅野真道(すがののまみち)らに国史編纂(797年『続日本紀』として完成)を、延暦23年(804年)には空海・最澄らを唐に派遣するとともに、勘解由使(かげゆし)を設置して国司の監督を強化し、天皇による強力な政治を行った。

日像上人(にちぞうしょうにん)

日像上人(にちぞうしょうにん)

 文政6年(1269年)8月10日から康永元年・興国3年(1342年)11月13日

 鎌倉時代の日蓮宗の僧。俗姓は甲斐源氏の流を汲む平賀氏。下総国の出身。肥後阿闍梨(あじゃり)と称されます。四条門流の祖。

 日蓮の高弟である日朗上人の弟子。日蓮上人に京都での布教活動と天皇への布教を遺命され永仁2年(1294年)に上洛します。しかし、他宗派の迫害を受けるなど京都での布教活動は困難を極め、徳治2年(1307年)に後宇多上皇の勅命で、京を追われ土佐国の播多への流刑を命じられます。西国に向かう途中、向日神社の明神の化身となった二羽の白鳩と老人に引き止められ、西国街道沿いの大石(現在の説法石)に腰を下ろして説法を行いました。これを聞いた多くの村人が上人に帰依して、法華経信者となったといわれます。

 「鶏冠井題目踊」は、日像の布教活動が生んだ踊りです。

前田玄以(まえだげんい)

前田玄以(まえだげんい)

 天文8年(1539年)から慶長7年(1602年)

 戦国時代から安土桃山時代にかけての僧侶・武将・大名。豊臣政権の五奉行の一人。

 織田信長の臣下となり、後に信長の命令で織田信忠付の家臣となります。天正10年(1582年)の本能寺の変に際しては、三法師を連れて京都から脱出、美濃岐阜城、さらに尾張清洲城に逃れました。

 天正11年(1583年)から京都所司代に任じられたが、天正12年(1584年)に羽柴秀吉の勢力が京都に伸張すると、秀吉の家臣として仕えるようになります。

 豊臣政権においても、京都所司代として活躍し、天正20年(1592年)に「向日町」名の始まりである「向日新町」が西国街道沿いに町場として成立する定書を出します。

六人部是香(むとべよしか)

六人部是香(むとべよしか)

 寛政10年(1798年)4月22日から文久3年(1864年)11月28日

 幕末の向日神社神官、国学者、神道家、歌学者。号は葵舎(あおいのや)、篶舎(すずのや)。

 文政6年(1823年)、江戸に出て平田篤胤(あつたね)の門人となり、平田派関西の重鎮として重んじられた。その著「顕幽順考論(けんゆうじゅんこうろん)」は、人間存在を顕と幽との両世界に分けて神の性質について説いたもので、孝明天皇に進講するという栄誉に浴した。晩年は京都三本木に神習舎を開いて門人に教授した。歌学の造詣深く、歌格研究の集大成ともいうべき「長歌玉琴」を著した。

 向日町における文化サロンの牽引者。

山本新次郎(やまもとしんじろう)

山本新次郎(やまもとしんじろう)

 嘉永2年(1849年)から大正7年(1918年)。江戸から大正初期期の農家、農業研究者。物集女町で農業を営む傍ら米に品種改良を行いました。

 「西の旭、東の亀ノ尾」という言い伝えが、育種家仲間にあります。良食味品種をつくろうと思えば、明治時代に生まれたこの両品種の遺伝子を導入するのがもっとも近道というのです。

 明治41年(1908年)、山本が59歳の時、「日ノ出」という品種の米を栽培中に、倒伏に強い特異な株を見つけたのが『旭米』品種の始まりといいます。たびたび試験場に足を運び、技術の習得に努めていた結果が、多収・高品質な品種の大発見に繋がり、種子を希望する農家が殺到しました。

 山本の偉大さは、この品種を発見だけでなく、その普及のため公正な評価を求めている点にもみられます。「コシヒカリ」や「ひとめぼれ」など良質品種の源流ともなりました。

笹部新太郎(ささべしんたろう)

 明治20年(1887年)1月15日から昭和53年(1978年)12月19日

 桜の研究家。東京帝国大学在学中から桜の研究を始め、岐阜県の「荘川桜」の移植、大阪造幣局の桜の管理・育成などに関わりました。

 昭和10年(1935年)、当時の向日町字向日・寺戸にまたがる丘陵地の中の3,000坪ほどの土地に桜苗圃をつくり、苗木の育成や接ぎ木の実験を行うなど、日本古来の桜の保存・改良に特に力を尽くしました。

 「桜男」「桜博士」と呼ばれ、新聞に連載されテレビドラマ化もされた水上勉の小説「櫻守」に登場する竹部庸太郎のモデルにもなっています。

中山修一(なかやましゅういち)

中山修一(なかやましゅういち)

 大正4年(1913年)7月19日から平成9年(1997年)4月30日

 昭和後期-平成時代の歴史地理学者。長岡京跡発掘調査研究所長。西京高教諭、京都文教短大教授などを務めました。

 昭和28年(1953年)に「乙訓郡誌」の長岡京を含む奈良時代の執筆依頼を契機に「幻の都」といわれていた長岡京の研究に取り組みました。

 当時、長岡京は、文献上だけのものといわれていたが、長岡京が平安京と同様に碁盤の目のように区画されていたことを明らかにし、長岡京の全体の復元図を作成しました。また、昭和29年(1954年)12月には、阪急西向日駅前において、はじめて所在地を確定する発掘調査を行いました。

小林清(こばやしきよし)

小林清(こばやしきよし)

 大正5年(1916年)から昭和50年(1975年)。「乙訓の文化遺産を守る会」創設者。

 鶏冠井町大極殿に居住し、長岡宮跡を中心とした乙訓地方の文化遺産を守るため、研究活動を進めるとともに、会報「乙訓文化」と会誌「乙訓文化遺産」の発刊など長岡京跡の情報発信に努めました。

 発掘後間もない長岡宮跡の基礎資料を作るため、出土瓦について綿密な調査を行い、難波宮瓦と平城宮瓦との関係や長岡宮窯瓦について考察し刊行した「長岡京の新研究」は今も研究指針となっています。

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