長岡京跡へ行く
更新日:2018年7月2日
今から1200年以上前、延暦3年(784年)に日本の首都が、奈良の平城京から向日市・乙訓の地に遷されました。その後、平安京へ遷されるまでわずか10年の間でしたが、桓武天皇が思い描いた都の姿は、わたしたちの足元に眠っています。
都の名前は長岡京 中心は長岡宮(ながおかきゅう)
向日神社のある場所は京都・嵐山から続く丘陵地の先端。長く続く岡の東にひろがる向日市付近は、古くから「乙訓郡長岡村」と呼ばれていました。
長岡村におかれた都だから長岡京。とくに向日市には、大極殿や朝堂院、内裏など国の重要な諸施設が立ち並ぶ、長岡宮と呼ばれる区画がありました。
大極殿跡・小安殿跡
大極殿は政務や儀式の際、天皇が臨御する場です。瓦ぶきで礎石の上に朱塗りの柱が立つ、都でもっとも立派な建物でした。
長岡京に都を遷して初めて迎える延暦4年(785年)の元旦、大極殿の前に7本の宝幢(ほうどう=のぼり旗)がそびえ、儀式が行われました。大極殿跡には宝幢の柱が復元されています。
朝堂院跡
朝堂院は、大極殿の南側に東西4堂ずつ、あわせて8堂が並び立ち、貴族や役人が勢ぞろいして政治を執り行う場所です。
夜明けとともに荘厳な楼閣が左右にそびえる南門が開き、大勢の役人たちが朝堂院へと出勤しました。
内裏(だいり)内郭築地回廊跡
北真経寺の境内から南にかけて、160メートル四方の広さを持つ内裏の区画がありました。
内裏とは天皇や皇后たちの住まいで、現在の皇居にあたります。周りは警備のため内と外に屋根付きの通路がある厳重な塀で守られていました。
北西コーナー部分の塀の柱跡が、公園のなかに復元されています。
築地(ついじ)跡
築地跡は、幅2.1メートル、高さ約4.5メートルの瓦葺きの土塀跡が、約80メートルにわたって発見されたところです。
現在は地下に埋もれている長岡京の遺跡のなかで、ただ1か所、地上に残された都の痕跡です。
東院跡
桓武天皇が平安京に遷都する前の2年間、仮の内裏として住んだ場所が東院です。向日市温水プール建設敷地から大規模な建物跡が発見され、東院の候補地として、現在同プールの一角に復元整備されています。その後の発掘により、「東院」ではなく、天皇や皇族が本来の住まいとは別に設けた宮殿の「離宮」ではないかと考えられています。
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