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絵図資料

更新日:2015年12月8日

絵図

文化資料館には、江戸時代から明治の初めにかけての、現在の向日市域や近隣を含めた乙訓地 BN域を描いた絵図が保管されています。
これらの絵図は、山や用水の利用をめぐる交渉・対立の記録として、あるいは荒地などの土地の利用状況を調べ、新政府に提出する資料として…、描かれた背景はさまざまですが、写真がまだ発明・普及していなかった時代に、地域における人々の営みや自然とのかかわりのなかでかたちづくられた景観を、今に伝える史料として貴重なものと言えるでしょう。

山城国乙訓郡物集女村麁絵図

明治3年(1870)9月  39.5×54.5センチメートル 中山祥夫家文書

向日市域北端の物集女村の全域が西を上にして描かれており、明治時代以前の物集女の姿がよくわかる絵図です。この絵図は、当時、会所代といった京都府の出張所から命じられて、荒地などを調べた帳面とともに差し出した控えで、他の村にも同様の絵図が残されています。

村の中央を南北(絵図では左右)に、物集女街道(この絵図では「さが(嵯峨)海道」と記す)が通り、西側は山(向日丘陵)で、溜め池が点在し、物集女が池の水によって灌漑する池がかりの村であることを示しています。

(画像)山城国乙訓郡物集女村麁絵図

(画像)山城国乙訓郡物集女村麁絵図(裏)

長野山見分絵図 

明和8年(1771)  128.4×147.6センチメートル 中村光枝家文書
江戸時代の中期、当時は長野山と呼ばれた物集女西部の向日丘陵を開発する計画が持ち上がった時に作られた絵図です。開発の申請が出された時、山で刈り採る柴や草を田畑の肥料や生活の燃料にして暮らしてきた物集女村の人々は、開発の中止を願い出ました。東側の水田部分は省略されていますが、物集女の全体のようすがわかるものとしてはもっとも古く、山のなかの溜め池も正確に表現されています。
絵図の隅には「分見百間五寸之積り」とあり、約1,200分の1の縮尺で描かれていることがわかります。

(画像)長野山見分絵図

(画像)長野山見分絵図(裏)

白井・鶏冠井村境用水図 

年月日未詳 55.7×73.7センチメートル 鶏冠井区有文書

現在の向日市民体育館、ふれあい広場、市民温水プールのあたりを描いた絵図で、年代は不明ですが、江戸時代の中後期(今から約200~150年前)のものと思われます。関連資料に乏しく詳細はわかりませんが、水路の幅を細かく書き入れ、水路の中や両脇に柵木を描いた箇所があり、用水路の管理にかかわって作成されたものとみられます。

現在もある地名に加え、統合される前には田1町ごとにあった細かな小字名が見られます。東を流れる大きな水路に「六郷井手」とあり、現在の寺戸川から西羽束師川にかけての流れにあたります。

(画像)白井・鶏冠井村境用水図

鶏冠井・下久我・菱川村用悪水絵図  

天明4年(1784)6月 90.6×157.2センチメートル 鶏冠井区有文書
現在の向日市域の最東端にあたる、鶏冠井と下久我・菱川(現在の京都市伏見区)の境界付近の水路を描いた絵図です。各村の領域は色で区別されており、絵図の北には桂川に設けた樋門から志水・古川・菱川3ヵ村の用水が取り入れられるようすとともに、鶏冠井村の水田からの排水が流れ込むようすも描かれています。
米作りには、田を潤す用水の流れとともに、水のいらない時期に田から水を落とす排水(悪水と呼ばれた)の管理も大切で、少しの雨でも水がつきやすい乙訓東部の村々にとって、水路の管理は大きな問題でした。こうした争いがおこると、村々はこのような絵図を作り、また文書を取り交わして、川幅や土手の高さ、川ざらえのやり方など、細かな取り決めをしていました。

(画像)鶏冠井・下久我・菱川村用悪水絵図

乙訓郡鶏冠井村絵図 

文化10年(1813)9月 77.4×81.1センチメートル 鶏冠井区有文書
かつて荒所改めのために作成された絵図を写し、それを利用して土地の領主名や村内道路の道のりが書き込まれており、鶏冠井集落内の道がよくわかる絵図です。
西端に向日神社の鳥居、その東に興隆寺・南真経寺の日蓮宗寺院があり、さらに東に離れて日蓮宗僧侶の学校であった檀林(現在の北真経寺)、西国街道の南端には同じく日蓮宗の石塔寺が描かれています。檀林に続く鈎の手に折れる道の両側が今の大極殿公園付近で、ここは「檀林道」と呼ばれていました。さらに、鳥居から東へ行き南に折れて村の南端の「神事場」(現在の鶏冠井町稲葉)に向かう道に「神事道」・「ミコシミチ」とあり、神輿が通る道であったことが示されています。

(画像)乙訓郡鶏冠井村絵図

城州乙訓郡鶏冠井村惣絵図面 

明治3年(1870)正月 38.7×54.3センチメートル 鶏冠井区有文書
明治時代初めの鶏冠井村全体が描かれた絵図です。道は赤、藪は緑、畑や屋敷地は肌色、水田は黄、水路は薄い茶色で表されています。この後しばらくして姿を消す興隆寺や安養寺、北真経寺の成就院・泉行坊、小祠なども描かれています。

(画像)城州乙訓郡鶏冠井村惣絵図面

(画像)城州乙訓郡鶏冠井村惣絵図面(裏)

海道悪水溝付替絵図 

元禄10年(1697)  27.5×42.5センチメートル 向日神社文書

向日神社門前の西国街道の中央に排水溝が流れていて往来の妨げになるため、町屋の裏側に付け替えを願い出た時の付図です。

鳥居南方(絵図では左)の道路中央に「町中水門」として水路が描かれています。 西国街道が「唐海道」と記されているのは、豊臣秀吉が「唐入」、朝鮮出兵に備えて拡幅・整備したためで、江戸時代、乙訓の西国街道はこの名で呼ばれることがほとんどでした。 この時の街道整備の一環として、向日神社の門前に「向日町」の町並みができはじめ、町場の名前が、明治22年(1889)の町村制により合併した町の名前になり、昭和47年(1972)の市制施行により向日市となりました。つまり、この絵図の場所は今日の向日市の起源にあたるのです。

(画像)海道悪水溝付替絵図

城州乙訓郡向日町惣絵図面 

明治3年(1870)頃か  38.6×54.4センチメートル 向日区有文書

物集女村や鶏冠井村の明治3年の絵図と同時期の作成とみられ、江戸時代の向日神社の境内地全体と、鶏冠井村の一部であった街道東側の町並みが描かれています。

現在の五辻にあたる場所から滝ノ下へ降りる道の両側に、楊谷寺(柳谷観音)の参詣講が建立した大きな石燈籠があり、その先には丘陵の端から滝のように水が流れ落ちるさまが描かれています。

(画像)城州乙訓郡向日町惣絵図面

乙訓郡上植野村惣絵図面 

明治3年(1870)春  39.6×53.9センチメートル 上植野区有文書

上植野村全体が描かれた絵図で、中央西寄り(絵図では左)の向日丘陵からのびる段丘上、および西端を南北に通る西国街道沿いに集落があり、ほぼ真ん中に向日神社の御旅所が描かれています。そのほか、明治38年(1905)まで御旅所の東隣、現在の上植野公民館の場所にあった乗願寺、明治11年(1878)に廃社となるまで上植野一村の鎮守であった御田神社もみえます。西国街道が小畑川を渡る地点に架かる橋は、1900年代に入る頃から一文橋の名が定着しますが、この頃はまだこの名前で呼ばれている史料は確認されていません。

桂川から引く用水に遠く、また村内に山がなく溜め池を持たない上植野は、この絵図に見られるように、小畑川をこえて対岸から取水する和井川と小井川、集落のある段丘の裾から出る湧き水を流す前川の、3本の用水路がおもな水源でした。

(画像)乙訓郡上植野村惣絵図面

鴫谷山山論裁許絵図(小塩村宛正本)

寛文9年(1669)9月7日 138.2×316.0センチメートル 長谷川治良氏所蔵

江戸時代前期の寛文9年(1669)、鴫谷山の利用をめぐって小塩村と井ノ内・今里・鶏冠井・上植野の村々が争い、裁判が行われました。その際、判決の内容を示した絵図が双方に下げ渡されましたが、この絵図は小塩村宛の正本にあたります。この正本は長らく行方がわからなくなっていましたが、上植野区が保管していた副本の絵図の修理を伝える報道がきっかけで、4ヵ村宛の正本および関連記録文書とともに小塩で発見されました。

問題となった場所は朱線で囲まれており、小塩村の家々が絵画的に描かれ、村内の寺の本堂や釣鐘堂のようすもわかります。山全体は深い緑色で、そのなかに芝地や広葉樹らしき大木や竹藪がみられ、林相にも注意をはらって描き分けられています。

また、裁許を下した京都所司代板倉重矩と西町奉行雨宮正種の黒印が、論所となった山を囲む朱線や裏面の署名の箇所に押されていました。

(画像)鴫谷山山論裁許絵図(小塩村宛正本)

(画像)鴫谷山山論裁許絵図(小塩村宛正本・裏)

鴫谷山山論裁許絵図(4ヵ村宛正本)

寛文9年(1669)9月7日 138.2×316.0センチメートル 長谷川治良氏所蔵

正本2枚、副本1枚の鴫谷山山論裁許絵図のうち、4ヵ村宛に下げ渡された正本の絵図です。もともとは井ノ内・今里の両村で共同管理されていましたが、小塩村宛の正本とともに小塩で発見されました。江戸時代のかなり後になって、この4ヵ村宛の正本を写した絵図が現在も今里区に残されています。

乙訓の東部は村のなかに山林がなく、農業や日々の暮らしに必要な柴や草を調達するため、他の村々と共同で利用する山林を、西山山地のなかに保有していました。明治時代中期(1880年代)頃までは4ヵ村側の利用は続きましたが、もともと鴫谷山の所有権はなく、下地や立木の権利は小塩にあったため、柴や草に替わる新しい肥料や燃料が登場すると、4ヵ村側の立ち入りは早くに行われなくなりました。かつて大切な証拠としていた絵図の存在も、忘れ去られていったと思われます。(上植野保管の副本)

(画像)鴫谷山山論裁許絵図(4ヵ村宛正本)

(画像)鴫谷山山論裁許絵図(4ヵ村宛正本・裏)

鴫谷山山論裁許絵図(4ヵ村宛複製(副本))

寛文9年(1669)9月7日 138.2×316.0センチメートル 上植野区有文書 向日市指定文化財

上植野区で発見されたこの絵図は、正本2枚、副本1枚のうち、上植野と鶏冠井が交代で管理することになっていた副本にあたります。昭和52年(1977)頃、上植野区の区有文書のなかに確認され、平成21年(2009)には向日市の文化財に指定されました。

絵図の西側には、小塩村ほか9ヵ村共有の山であった鴨背山(現在のポンポン山)が描き添えられ、東側には井ノ内・今里・鶏冠井・上植野の村々の位置が小判形で示されています。また、裏書には、正本にはない4ヵ村での絵図管理の覚書と村役人の署名・押印もあります。

鴫谷山は小塩村領の山でしたが、井ノ内など4ヵ村も柴や草を刈り採る権利を持っていました。裁判によって4ヵ村の立ち入りはこれまで通り認められ、内容を示した絵図が下げ渡されますが、その際4ヵ村側では複製を作り、正本とともに村として交代で管理し、永年にわたって権利の証拠として大切に保管されてきたのです。

(画像)鴫谷山山論裁許絵図(4ヵ村宛複製(副本))

(画像)鴫谷山山論裁許絵図(4ヵ村宛複製(副本)・裏)

沓掛・塚原・物集女三ヵ村立会山図 

明治5~6年(1872~73)頃 76.1×135.0センチメートル 安田五隆家文書

物集女村は、江戸時代から字天ヶ嶽・字峠山(現京都市・亀岡市境界付近)などの山林を、沓掛・塚原(現京都市西京区)との3ヵ村で共有していました。この図はその山を描き、太い赤線が山陰街道、その両側に水色で彩色されているのが共有山の場所を示しています。

図面には後に貼られた付箋や継紙があり、これは明治12年(1879)に沓掛・塚原の2ヵ村が勝手に下桂村の人に譲り渡したとして争論になった際のもので、共有山の境界には目印の標石があり、また山陰街道沿いには地蔵堂と、山城・丹波の国境を示す道標も描かれています。

(画像)沓掛・塚原・物集女三ヵ村立会山図

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