現在の位置

第13回中学生弁論大会:受賞者一覧・弁論内容

更新日:2019年11月27日

市長賞

市長賞受賞者一覧
氏名 中学校名 学年 題名
竹井 康将 寺戸中学校 1年 本当の友だちとは
阪口 歩 寺戸中学校 2年 あの日の僕
千代 七海 西ノ岡中学校 3年 ドラえもんはのび太君を助けているか

 

教育長賞

教育長賞受賞者一覧
氏名 中学校名 学年 題名
房安 碧花 寺戸中学校 1年 私にできること
白金 宗 寺戸中学校 2年 「リサイクル」という行動の重み
中西 紬 寺戸中学校 3年 ありがとうの言葉を胸に

 

優秀賞

優秀賞受賞者一覧
氏名 中学校名 学年 題名
石渡 未智 西ノ岡中学校 1年 この思いが届くまで
五十棲 朱里 勝山中学校 2年 事件を通して考えたこと
下寳 詩絵莉 寺戸中学校 3年 あいさつの可能性

 

弁論内容

「本当の友だちとは」 竹井 康将(寺戸・1年)

(写真)竹井 康将さん

 みなさん、「本当の友だち」とはどんな友だちだと思いますか。
 人によって、「自分に優しくしてくれる」、「互いの気持ちを理解し合える」、「気を許せる」、「趣味が合う」……と、様々なとらえ方があると思います。そして、もうそのような友だちと出会っている人もいると思います。ですが、その一方で、本当の友だちに出会えずに、困っていたり、悩んでいたりする人もいると思います。僕も、そうでした。
 僕が人から言われて一番イヤな言葉は、「チビ」です。小学校時代、兄にもまわりの友だちにも言われてイヤな思いをしてきた言葉です。兄になら言い返し、けんかもできます。しかし、友だちに言われ、からかわれていたときは、その場の空気を壊してはいけないと思い、笑って我慢してきました。心の中では、「何か言い返してやる」、「見返してやる」と思いながらも、なかなか言い出すことができませんでした。だから、きっと友だちは、僕がそれほど辛く苦しい思いをしているとは思っていなかったのかもしれません。
 しかし、笑って我慢しているだけでは現状は何も変わりません。そこで、僕は勇気を出して、「やめてほしい」と伝えました。すると、友だちは、「ごめん、そんなふうに思ってたなんて知らなかった」と言ってくれ、それから、からかわれることはなくなりました。やっと僕は、心から安心して友だちと一緒に遊べるようになりました。
 このようなことから、やっぱり「イヤなことはイヤだ」と勇気を持って自分の気持ちを伝えることが大切だと感じました。そうすれば、自分にとっての「本当の友だち」ができると、僕は思います。
 しかし、自分の気持ちだけを考えていても、相手の気持ちを考えていないと、相手にとって自分は本当の友だちとは思われないでしょう。
 僕にも、小学校2年生の頃、知らず知らずのうちに友だちを傷つけていたことがありました。今思えば、みんなが言っていたから、僕も調子に乗っていたのだと思います。友だちのことを「ゴリラ、ゴリラ」とからかっていたのです。彼はとうとう泣き出してしまいました。先生に指摘され、みんなで話し合いをするまで、彼がそれほど傷ついているとは気づきませんでした。その日、僕たちは彼に謝りました。そしてそれから彼とは仲の良い友だちになりました。
 たとえ、一度傷つけてしまっても、きちんと謝って、お互いに理解し合えるようになれば、仲の良い、本当の友だちになれるのだと僕は思います。
 自分は人から言われたらイヤなことがあっても、自分が相手を傷つけることを言っていることには、なかなか気づかないものです。
 だからこそ、勇気を持って自分の気持ちを伝えること、そして、相手の気持ちを考えること、理解し合える友だち関係を作ることを、これからも大切にしていきたいです!

「あの日の僕」 阪口 歩(寺戸・2年)

(写真)阪口 歩さん

 僕は、野球部に所属しています。入学時、「厳しい上下関係」のイメージを持って入部した野球部には、僕が想像した以上の先輩たちが待っていました。
 野球のセンスは抜群なのに、勉強はさっぱりな先輩や、練習試合でエラーすると、「あれはボールが悪い!」と言い張る先輩。集合時間を忘れて、後輩の僕に聞いてくる先輩や、自転車の移動中、迷子になりかける先輩。先生に、「やる気ないんやったら帰れ!」と言われると、本当にいそいそと連れ立って帰っちゃう先輩たち。そんな愉快な先輩たちと過ごした一年間は、練習はきつかったけれど、毎日笑いが絶えない楽しいものでした。
 
 けれども、そんな楽しい部活動が僕の中で、一瞬で壊れてしまった出来事がありました。

 ある日の練習試合でのこと。最終回2アウトで、ボールはセカンドを守る僕の所へ。慎重に捕って投げた球は、ファーストの頭上を大きく超える暴投になってしまいました。その試合のあとから、僕はボールを投げられなくなってしまったのです。精神的なショックからボールを投げられなくなる病気を、イップスといいます。
 その夜、布団の中で眠れず、野球ができなくなる怖さに僕は襲われました。
 「明日の試合でも失敗したらどうしよう…」
 不安が大きくなり、明日になるのが怖くてたまりませんでした。

 翌朝、僕は母に、「部活を休みたい」と初めて言いました。先生との電話では、泣くことしかできず、「明日には行けます」と言いましたが、その明日は、その時の僕にとって、現実に来るとは思えない明日でした。

 それでも家族に半ば強引に背中を押され、試合はとっくに終わった午後の練習に、僕は足取り重く向かいました。「こんなかっこ悪い自分を先輩たちはどんなふうに思うのだろう…」
 そんな、「不安」というひとことでは表しきれない気持ちを一瞬で吹き飛ばしてくれたのは、先輩たちのいつもと変わらない笑顔でした。僕のギュッと固まっていた心も体もほぐれていき、練習のキャッチボールでは、あんなに怖かったのが嘘のように普段通りに投げられたのです!
 「もう大丈夫なんか? また暴投するんちゃう?」と笑ってくれた先輩や、「俺よりましや」と自分も投げるのが怖いことをそっと告白してくれた先輩もいました。
 僕の生まれて初めてのイップスは、先輩たちのおかげで、たった一日で治ってしまいました。先輩たちに支えてもらっていたのは、僕のほうだったのです。

 先輩たちは、自分に欠けたところがあって、その部分に感じる痛みを知っています。そんな彼らだから、「できる・できない」で判断せず、弱さもある僕をまるごと好きでいてくれたんだと思います。彼らにとって、投げられなくても、僕は僕だったのです。

 今年の夏の大会、僕たちは一回戦で負けてしまいました。その時、僕は、先輩たちともっと野球がやりたかった、と泣きました。そして、気づきました。僕はこの人たちとだから野球を好きになれたんだ、と。

 八月、僕は新チームのキャプテンになりました。まだ、失敗したらどうしよう…と不安になる時もあります。でも、もう僕は前の僕とは違います。先輩たちから教えてもらった、勝ち負けじゃない大切なものを、今度は僕たちが伝えていきたいです。僕は僕のままで、大好きな野球に打ちこみたいです。

 

「ドラえもんはのび太君を助けているか」 千代 七海(西ノ岡・3年)

(写真)千代 七海さん

 突然ですが、皆さんは、ドラえもんが本当にのび太君を助けていると思いますか。日常の中で困難に遭遇する人間。そこに手を差し伸べてくれる未来の文明。この両者の関係を考えたときに、のび太君は一見、困難を切り抜けているようには見えますが、実は私たち人間にとって危機的な状況であることを暗示しているのではないでしょうか。
 では、ここで、自分自身の一日を思い出してください。「機械に頼ってしまっているな。」と思うことはありませんか。朝、起床するときに、私を手伝ってくれるのが目覚まし時計。これは、私の自立する力を失わせているような気がします。そして、学校や仕事で使うのが電子辞書。これを使うことにより、紙媒体の辞書をひく力は育まれず、語彙力の低下に繋がります。そして、家に帰りテレビをつけます。テレビを見るとき、画面下の字幕ばかりを読んでしまい、聴く力の低下に繋がります。そして、テレビでは常に情報が流されている反面、自分で一つの物事に対してじっくり考える力というものが、失われるような気がします。そして自分の部屋に戻り、スマートフォンなどの携帯機器に向き合います。文字を入力するときに予測変換機能などのせいで、自分の漢字や語句を書く機会というものが失われる気がします。
 一日を振り返ってみると、これだけの「便利」「自動」のせいで、私たちの知能は低下している気がします。実に人間らしくない。確かに科学技術は、私たちを助けてくれる有効な手段の一つとなるでしょう。しかし、これにより、私たちがもともと持っていたはずの力がなくなっていることは考えられませんか。
 では、私たちはどうすればよいのでしょう。それは、技術の進展=人類の退化という関係を結びつかせないことです。それは、時に技術を否定し、世間の流れに抗えるような知識を私たちがつけることで、技術の進展=人類の進歩という関係を結びつかせることができます。そして、私が今実際にしていることは、友達に自分の思いを伝えるときに、メールではなく手紙を使うことです。そうすることにより、自分の思いがよりいっそう相手に伝わると思うからです。実際に手紙をあげた友達からは、「あなたの字を見ると落ち着く。」と言われたことがあります。こう言われたときに、私は、手紙には、人の気持ちを動かす不思議な力があるんだな、と思いました。そして、のび太君はどうすればよかったのか。彼は、ドラえもんの支援に頼る前に、まずは、「自分にできることは何かなぁ。何が挑戦できるかなぁ。」と、考えてみれば、彼もまた、違った成長をしていたでしょう。
 最初の質問です。私たちやのび太君はドラえもんの支援に頼り、受身にばかりなっています。今からでも、少しずつでいいから、自分にできることを探し、自分の可能性を広げていきましょう。
 

「私にできること」 房安 碧花(寺戸・1年)

(写真)房安 碧花さん

 「こんなんやったら、早く死んだほうがましや。」
 いつも優しく笑顔だった曾祖母が、こんなことを言うようになったのは、一体いつからだったでしょうか。
 私には86才の曾祖母がいます。赤ちゃんの頃は、よく抱っこをしてもらい、大きくなってからも、一緒にお出かけをしたり、旅行にも行きました。
 けれど、裁縫が得意で、手先が器用だった曾祖母も、だんだん身体が不自由になってしまいました。そこで、曾祖母は、祖母と同居するようになりました。
 しかし、それからも筋力の低下はおさまらず、車いすを使うようになりました。また、家の中でも家族の介助が必要になりました。この頃からでした。曾祖母の顔から笑顔が消え、「死んだほうがましだ。」と声に出すようになったのは。
 食事の際はエプロンをつけ、小さく切ったおかずとおかゆをスプーンで食べます。ストロー付きのマグカップでお茶を飲み、すぐむせて吐き出します。認知症と診断され、言葉もろれつが回らなくなりました。そんな姿を見て、正直うっとおしく思ったり、お世話をするのが面倒くさいと思ったりしました。
 そんなある日、大腿骨を骨折し、入院・手術となりました。このまま歩けなくなるのではないかと家族みんなが心配しました。けれど私は、心の中でほんの少し、曾祖母の介護から解放される喜びを感じてしまいました。
 病院へお見舞いに行くと、とても嬉しそうにしてくれ、私に手を差し出してくる曾祖母。その手を握り返すと、とても安心したように微笑んでくれます。私はその度に、一瞬でも入院を喜んだことを、申し訳ない気持ちでいっぱいになります。一番不安で辛いのは曾祖母なのに、どうしてもっと私は寄り添ってあげられなかったのでしょうか。
 それから私は、何かできることはないか必死に考えました。けれど、看護師さんの動きをまねようと思っても、とうてい私にできそうなことはなく、また、祖母や母のように、洗濯などの身の回りの世話ができるわけもなく、もやもやした気持ちだけがつのりました。
 そんな私の気持ちを知ってか、祖母が私に言いました。
 「ひいおばあちゃんは、碧花(みなは)のことがとても大好きで、顔を見るだけで元気がでるんやで。」
 私ははっとしました。できないことを無理にしようとするのではなく、私にできることをすればいいのだと、祖母の言葉で気付かされました。
 私にできること、それは、曾祖母の手をとり、笑顔で接することだと思います。その日あったことや、最近おもしろかったことなど、たくさんお話しして一緒の時間を過ごすことで、曾祖母の元気や生きる力につなげられたらいいなと思います。
 今もまだ曾祖母は入院してリハビリを続けています。以前のような生活は期待できないと主治医からは言われていますが、曾祖母が頑張っている限り、私は私のできることをして、支えていきたいと思います。大好きな曾祖母のために。
 

「「リサイクル」という行動の重み」 白金 宗(寺戸・2年)

(写真)白金 宗さん

 みなさんは、ペットボトルキャップのリサイクルについて知っているだろうか。ペットボトルのキャップを何百個か集めて、回収業者を通じてNPO法人に送れば、何円分かのお金になる。そのお金で発展途上国の子どもたちにワクチンを買うことができる。また、キャップをリサイクルして二酸化炭素の排出を抑えようとするものである。家にあるペットボトルのキャップを持って行くだけで良いので、小さな子どもでも簡単に地球のために役立つことができる。小学生や幼稚園児に環境保護の大切さを教え、貧しさに苦しむ人々への理解を深めるためにも効果的だと僕は思う。僕も実際に、家にあるペットボトルのキャップを集めて、イオンに持って行ったりしている。

 だが、僕はふと思った。僕の持って行ったキャップはこの後どうなっていくのだろうか。僕はインターネットで調べることにした。すると、キャップ430個で10円のお金になり、20円で一人分のワクチンを買うことができるということが分かった。つまり、キャップ860個で一人の子どもの命を救うことができるのだ。

 しかし、「キャップをリサイクルし、その利益を発展途上国へ寄付する」という活動のためには、キャップの輸送代などで、利益以上の費用がかかってしまうことも分かった。お金の面で見ると、効率のよいリサイクルとはいえないのではないだろうか。
 また、キャップ430個をリサイクルせずにごみとして燃やした場合、約3000グラムの二酸化炭素を排出すると書いてあった。人間一人が一日に排出する量は、1000グラムらしい。世界には、多くの人間が生活し、毎日多くの二酸化炭素が排出されているので、キャップをリサイクルして減らせる二酸化炭素の量は、とても少ないということが分かる。果たしてこれは、地球にやさしいといえるのだろうか。
 その他にも、リサイクルで集められた電化製品が、アフリカの環境問題になっているという報道を、見たこともある。電化製品の部品を再利用するために、アフリカの国に送られ、再利用されなかった部分は燃やされる。その燃やされる時に、有毒ガスが発生する。これを吸って頭痛や咳などの症状が起き、さらには死者まで出ているのだ。また、有毒ガスが川に流れ込み、水が汚染される。その水を飲んで亡くなる人もいるそうだ。僕は、リサイクル品は安全にリサイクルされていると決めつけていたので、この話に非常に衝撃を受けた。

 僕が今回伝えたったことは、リサイクルという行動の先あるものを考えてみよう、ということだ。リサイクルは環境にやさしいと決めつけて、みんなが正しいと思っていることが、じつは地球の環境を悪くする場合もある。リサイクルをするのは、確かに良いことだ。素晴らしい、大切なことだと思う。ただ、リサイクルをすれば、環境が守られると単純に決めつけてはいないだろうか。実際、僕もそうだった。みなさんは、リサイクルボックスにただキャップや電化製品を入れて終わっていないだろうか。その先を、一人一人が自分で確かめる必要があると、僕は思う。僕自身、これからは「リサイクル」という行動の重みについて考えていきたい。そして、その先に何が起こるかということに関心を持ち、確かめたうえでリサイクルをしていきたい。

 

「ありがとうの言葉を胸に」 中西 紬(寺戸・3年)

(写真)中西 紬さん

 「おばあちゃんが、がんだって!!」
 私が小学校6年生の時、慌てた様子の母にそう言われたのを、今でも鮮明に覚えています。驚きのあまり、一瞬言葉の意味が理解できませんでした。つい最近会った祖母はとても元気で、私には信じられませんでした。ようやく言葉の意味を理解した私の心の中に渦巻いていたのは、(もっと…もっとたくさん話をして、もっと感謝の思いを伝えておけば良かった!!)という、後悔の思いでした。
 もし、自分の大事な人に、もう会えないかもれない、と分かったら。みなさんは何を考えるでしょうか。私のように、できなかったことへの後悔の思いが湧いてくる人もいるのではないでしょうか。私の祖母はその後、一命を取り留めました。ですが、もし助かっていなければ、私は、今以上に後悔していたと思います。
 病気だけではありません。自然災害や交通事故など、私達の大事な人を襲う物は、たくさんあります。その「もしも」に備え、日頃から、家族や友人、お世話になっている人との時間を一分一秒大事にし、そして、「感謝」の思いを伝える事が何より大事だと、私は自分の体験から学びました。
 いざ、家族や友人に、面と向かって感謝の思いを伝えることは、恥ずかしさもあると思います。ですが、一歩勇気を出して感謝の思いを伝える、という事が必要です。「いつもありがとう」とは言えなくても、「いつも助けられてるよ」とか、「いつもお仕事お疲れ様」とか、そんな優しい言葉で、感謝の思いは表現できると思います。
 一方で、心無い言葉を、家族や友人、先生に向かっていう人を、最近よく見かけます。そのままでは「もしも」の時、必ず後悔します。どうしても、相手に感謝や優しい思いを言葉で言えない時は、行動で示したり、心の内に感謝の思いを秘めながら、話す事が大事だと思います。携帯の普及により、いつ、どこでも話せる、という事に慣れ、直接話せる事へのありがたみが薄くなった今。もう一度、自分の心と素直に向き合って、一つ一つの言葉を大切に伝えるということについて考える必要があるのではないでしょうか。
 あたりまえを、あたりまえと思うのでは無く、あたりまえがあたりまえでいられることに感謝をする。どんな小さい感謝でもいい。小さい感謝の積み重ねが、悔いの無い人生につながると、私は思います。
 家族への「ありがとう」。友達への「ありがとう」。先生への「ありがとう」。食べ物を作ってくれる人への「ありがとう」。探せば探すほど、私達の身の回りには感謝があふれています。そんな小さい事への感謝。あたりまえを作っている物への感謝を、私達は忘れてはいけません。
 私は、おばあちゃんの病気を知って、感謝する事の大切さに気づきました。それに気づいたからこそ、日々様々な事に感謝し、後悔の残らないようにしたいです。「ありがとう」の言葉を胸に。
 

「この思いが届くまで」 石渡 未智(西ノ岡・1年)

(写真)石渡 未智さん

 「いじめ」! 誰もが耳にしたことのある言葉、最近、増えていると思いませんか?
 私たちは誰もが守られるべき人権を持っています。けれどもいじめとは、その人権を侵害する行為であり、あってはならない問題ではないのでしょうか。
 「自殺した生徒が同級生からいじめをうけていた」というニュースを聞きますが、いじめが原因で、大切な命が失われています。それなのに学校は、学校のイメージダウンを恐れてか、「担任は気付かなかった」という説明をすることがよくあると思います。そのニュースを耳にするたびに、私は、「いじめられていた子はどれほど苦しかったのか」「周りはどうして助けてやらなかったのか」と考えます。
 私は、心の弱い人が心の強い人にいじめられるとは思っていません。むしろ、「心の弱い人」が「心の強い人」に嫉妬していじめを行ってしまうのではないのでしょうか。そして、いじめという行為が、心が強かった人の中にある「強さ」を奪い、恐怖に飲まれてしまうのだと思います。
 1996年、当時の文部科学大臣が「深刻ないじめは、どの学校にも、どのクラスにも、どの子どもにも起こりうる」という緊急アピールを出しました。そして調査により、小学4年生から中学3年生までの6年間に、仲間はずれや無視、陰口などのいじめと無関係でいられる児童生徒は一割しかいないことが指摘されました。それでは、「周りでいじめが行われている」という現状に気付いていない人なんて、本当にいるのでしょうか。
 小学生の頃、いじめは3つの立場に分かれると教えてもらいました。一つは「本人たち」。二つ目は「一緒にやっている人」。そして三つ目は「見ているだけの人」です。そこには全員が関係していて、無関係な人など一人もいないのです。そして、悲惨な出来事を助けてあげられる人も一人もいないのです。
 「もうやめよう」そう思っていても、その言葉を発することは怖くてできない。「ここで言ってしまうと、私もいじめられてしまうかもしれない」、そんな不安を抱き、実行できない人が多いのです。
 好みが合わない、態度が気に入らないなど、小さなことから始まるいじめ。ターゲットとなった人は、どれほど必死に手を伸ばしても周りには届かず、「ここで言ってしまうと、誰かに言ってしまうと、いじめはもっとエスカレートするんじゃないか」「どうして私なの。どうして助けてくれないの。どうして、どうして…」そんな苦しい思いに耐えられなくなり「自殺」という選択しか考えられなくなってしまうのではないのでしょうか。
 私は助けを求める手が伸ばされているのなら、その手をつかみ、絶対に離さないようにしようと思います。一人では怖くてできなくても、みんなでできれば状況は変わるのではないのでしょうか。たった一人の、こんなに小さな気持ちが、行動が、少しずつつながっていけば、今苦しんでいる人の命を、気持ちを救うことができるのです。
 いじめにより命を落としてしまった人、苦しめられている人の思いと、私の思いが届くまで、私はいじめと向き合い、一人でいる子がいたら、「大丈夫? 私がいるよ」などと声をかけ、自分から、一人でも苦しめられる人が少なくなるように、示していこうと思います。
 

「事件を通して考えたこと」 五十棲 朱里(勝山・2年)

(写真)五十棲 朱里さん

 7月26日未明、日本中に衝撃が走る事件が起こりました。ある障がい者施設で元職員の男が刃物を振り回し、障がいのある方たちを襲ったのです。みなさんはこの事件を受けてどう思いましたか? 私はとても驚き、「私たちと同じ人間なのに、障がいがあるというだけで、こんな目にあうのはおかしい。」と思いました。
 この容疑者の発言や行動は、決して許されるものではありません。でも、自分自身を振り返ってみると、私も障がいがあるというだけで壁を作ってしまう自分がいたのではないか、と気づきました。それは、電車の中での出来事です。大きな声を出している障がいのある方に会った時、私は、とっさに車両を移ってしまいました。心のどこかで、避けてしまう自分がいました。
 しかし、そんな私を変えてくれる出来事がありました。それは、昨年学校で障がいのある方々とスポーツを通じて関わる機会があった時です。
 以前の私は、障がいのある方とどう接していいのか、どんな態度で関わったらいいのかなど、不安を抱えていました。でも、そんな私の不安は、障がいのある方々と出会ってすぐに消えました。みなさん笑顔で純粋にスポーツを楽しんで、キラキラと輝いていたからです。そして、この時私は、あれこれ考えずに、一緒にスポーツを楽しむ障がいのある方として関われた気がしました。この時、障がいのある方が本当に精一杯頑張っている姿を見ることができました。
 私は、とても楽しい時間を過ごすことができました。なぜ私は楽しいと感じたのか。その理由は、一緒に作戦を考えたり、いっぱい話したり、勝って喜んだり、そんな関わりがあったからだと思います。この時私は、障がいのある方として接していたのではなく、一緒にスポーツを楽しむ人たちとして接していたのです。今までの私だと、障がいのある方だから…としてしか見ずに、自分から壁を作ってしまっていたのではないかと思います。
 障がいのある、ないは関係ないのです。これは、友達関係でもいえることだと思います。見た目やうわさで付き合い方を変えたり、相手を勝手に判断したりしてしまっているのではないでしょうか。これは、自分と相手がせっかく関わる機会を、つぶしてしまっていることになるのです。だから誰に対しても、一人の人間として、相手を知り、関わっていくことが大切だと思います。
 これから私は、いろんな人に出会うことでしょう。その時、見た目で判断せず、同じ人として相手を尊重し、接していきます。
 

「あいさつの可能性」 下寳 詩絵莉(寺戸・3年)

(写真)下寳 詩絵莉さん

 「孤独死とあいさつ」「人助けとあいさつ」、一見、何のつながりもないような二つの言葉ですが、実は大きなつながりがあるのです。
 私は、生徒会の活動として、毎朝あいさつ運動をしています。はじめは同じ中学校だとしても、知らない人に自分からあいさつをして、もし無視されたら…と考えていました。だから、大きな声であいさつをすることができませんでした。しかし、あいさつを笑顔で返してくれる人がたくさんいるということに気づき、大きな声であいさつができるようになりました。すると、今までは気づかなかったあいさつの大切さに気づくことができました。それは、毎日のあいさつをすることによって、相手の顔色や声から体調が分かるということです。
 このことから、近年社会問題になっている孤独死もあいさつで防ぐことができるのではないか、と私は考えました。孤独死の約7割以上は独り暮らしの男性で、近所とのコミュニケーションを断つ人がなりやすいと言われています。それによって、家で倒れた時にも気づく人が誰もいないという環境がうまれてしまうのです。ですが、もし近所の人と毎日あいさつをしていたらどうでしょう。会話まではしていなくても、毎日会う時刻に会わなかったりすると、異変に気づき、少しでも早く発見することができるのではないでしょうか。
 また、あいさつには他にも大切な役割があると思います。2016年4月16日、熊本県でマグニチュード7.3 の大地震が起こりました。私はその後、寺戸中学校の生徒会として向日市の中学校、高校が合同で行った募金活動に参加しました。私は、校外でのボランティア活動が初めてだったので、とても緊張していましたが、勇気をふりしぼって、「熊本県への募金にご協力お願いします。」と大きな声で呼びかけました。ところが、ほとんどの人が通り過ぎていくだけで協力してもらえませんでした。すると、高校生の方が「まず、あいさつをして、返してくれた方にお願いするといいよ。」と言って下さいました。そのことをすぐに実践してみると、本当にたくさんの方が協力してくださるようになりました。中には、「熊本県が故郷なんだ」と言って涙ぐんでいた方や、車の中からわざわざ募金して下さった方もいらっしゃいました。
 この経験を通して、人間関係を築く上で、あいさつにはとても大切な役割があると思いました。さらに、このあいさつで熊本県の方々を少しでも助けることができたので、あいさつには人助けにもつながる大切な役割があると思いました。
 「孤独死とあいさつ」「人助けとあいさつ」、たった一言のあいさつが様々なことにつながっていくなんて素晴らしいと思いませんか。
 もちろん「あいさつでも防げない孤独死」や「できない人助け」もあると思います。でも私は、「あいさつをする」その一歩で変わることも確かにあると信じています。皆さんも、積極的にあいさつをしてみてください。きっと何かが変わります。そんな輪を向日市から是非広げていきましょう。
 

お問い合わせ
教育委員会 教育部 学校教育課
電話 075-931-1111(代表) ファクス 075-931-2555
教育委員会 教育部 学校教育課へのお問い合わせ

ページトップへ

サイト利用案内お問い合わせ

本館・別館・議会棟
〒617‐8665 京都府向日市寺戸町中野20番地
東向日別館
〒617-8772 京都府向日市寺戸町小佃5番地の1
上植野浄水場
〒617-0006 京都府向日市上植野町久我田17番地の1
電話番号 075-931-1111(代表)
各課の電話番号へ
ファクス 075-922-6587(代表)
■開庁時間 午前8時30分から午後5時15分 
■閉庁日 土曜日、日曜日、祝日、年末年始
番号はよくお確かめの上、おかけください