物集女城跡

更新日:2023年6月16日

乙訓西岡(おとくに にしのおか)

今から約680~400年前の室町時代から戦国時代、向日市を含めた桂川右岸の乙訓地域とその周辺は、「西岡」と呼ばれていました。
この「西岡」の名前の由来となったのが、嵐山から向日神社まで南北に長く続く「向日丘陵」が京都から見て西方に低く横たわることから丘陵のある地域一帯がそう呼ばれたようです。
この時代の「西岡」には、現在の各地区や町など大字となる集落が形作られ、発展していきました。

集落には「国衆」と呼ばれる地侍たちが勢力を築き上げ、土地争いなど利害に応じて敵対や連携、荘園領主や大名など対外勢力との交渉を行い、乱世を生き抜いていきました。

乙訓城館分布図

室町時代から戦国時代にかけ桂川右岸の西岡地域には現在の大字にも相当する「町」に一つの「城」がありました。これらの「城」は、私たちが思い浮かべるような石垣で守られた堅固なものではなく、地侍の長が住む70~100m四方の堀がある大きな館でした。

物集女城と物集女氏(もずめじょう と もずめし)

物集女城は、室町から戦国時代に当地域の一帯を本拠とした「国衆」(国人)と呼ばれた在地領主である「物集女氏」の居城と考えられています。
この物集女氏が初めて歴史上に現れるのは、長享元(1487)年閏11月3日に上久世庄(現京都市)に「郷々出銭」という自分たちに有利となるよう荘園領主に協力を要請した文書に、桂川右岸の広い地域である「惣国」の代表者六人の中に「物集女四郎右衛門尉光重」の署名が見られます。
この物集女氏は、恐らく室町幕府に仕えた小領主「西岡被官衆」の一人で、足利義政の後継者争いを発端とした応仁の乱(1467~77年)後に惣国の結集に参加したものと考えられています。
織田信長が山城地域を鎮圧した後、天正元(1573)年に細川藤孝は信長から桂川西岸一帯の土地に対する多種の権利を一元的に支配する「一職」を与えられ、国人等の領土を安堵しました。
安堵を受けた国人等は、勝龍寺城(長岡京市)の藤孝のもとに礼に参上すべきところ、物集女氏の当主である「物集女忠重入道宗入(疎入)」は代々の自分の領地であり「参上する謂われはない。」と拒絶したため、藤孝の重臣等によって勝龍寺城下で誘殺され、以後、物集女氏は衰退したと伝えられています。

物集女城付近航空写真

物集女城位置図

物集女城は向日丘陵から続く見晴らしの良い小高な扇状地の上で、物集女街道と丹波道(伏見道)の主要な街道の交差点を確保するように位置します。

物集女城公園のあるあたりの住所を物集女町中条と言います。「中条」は、城の中『中城』が語源ともいわれています。

城館内発掘調査の様子

これまで十数回の発掘調査により次第に物集女城跡の様子が明らかとなってきました。その規模は東西約70m、南北約75mで、周囲に堀と土塁を配した「方形単郭式」の構造で、内郭と呼ばれる城館内から建物や溝、ゴミ捨て穴などが発見されています。
出土した土器から、京の中心部の華やかさと地元の質素な生活様式の混在が伺われます。

 

 

▼発掘調査で出土した陶磁器や瓦質の土器

物集女城館跡から出土した陶磁器

物集女城館跡から出土した土師器

▲発掘調査で出土した土師器の皿

関連リンク

物集女城跡総合調査報告書

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