長岡京略年表

更新日:2018年7月2日

長岡京略年表
西暦 年 年号 月日 事項
781年 天応1年 4月3日 桓武天皇が即位する。弟の早良親王立太子。
782年 天応2年 閏1月14日 氷上川継ら、謀反の罪で配流される。
782年 天応2年 4月11日 造宮・勅旨2省と造法華寺・鋳銭2司を廃止する。
784年 延暦3年 5月7日 がま2万匹ばかり、難波の市の南道より四天王寺の内に入る(長岡遷都の前ぶれ)。
784年 延暦3年 5月16日 中納言藤原小黒麻呂、同藤原種継、左大弁佐伯今毛人らを派遣、遷都のため山背国乙訓郡長岡村を視る。
784年 延暦3年 6月10日 造長岡宮使に藤原種継、佐伯今毛人らを任命し、長岡宮・京を造り始める。
784年 延暦3年 6月13日 遷都を山背国の賀茂大神社に告げる。今年の調・庸税と宮を造る人夫の必要物資を諸国に命じて新京の長岡宮へ運ばせる。
784年 延暦3年 6月23日 新京に邸宅を造るため、 正税68万束を右大臣以下の政府要人に与える。
784年 延暦3年 6月28日 長岡村の百姓宅で宮内に入るもの57町に立のき料として正税約4万3千束を与える。
784年 延暦3年 7月4日 阿波・讃岐・伊豫の3国に命じて、山崎橋を造る料材を出させる。
784年 延暦3年 11月11日 長岡京に遷る。
784年 延暦3年 11月20日 遷都のため賀茂上・下社、松尾・乙訓神に叙位。同月28日これらの4社を修理する。
784年 延暦3年 12月2日、18日、29日 宮城を築いた山背国葛野郡の秦足長ら、宮を造る功労者にそれぞれ叙位と賜爵。
784年 延暦3年 12月13日 王臣家・諸司・寺司による山野の独占を禁止する。
785年 延暦4年 1月1日 長岡新京の大極殿で初めて朝賀式。五位以上の貴族、内裏で祝宴。
785年 延暦4年 1月14日 摂津国神下・梓江・鯵生野に堀を作り、三国川に結ぼうとする(京へ資材運搬のため)。
785年 延暦4年 3月3日 嶋院で天皇と貴族、曲水の宴をする。
785年 延暦4年 5月19日 4月末に皇后宮に瑞兆の赤雀が現われたのを祝い、賜爵・叙位・免租等を行う。
785年 延暦4年 5月24日 諸国貢進の調・庸税の粗悪について、国司・郡司の責任を明確にする。
785年 延暦4年 7月20日 宮を造る人夫に諸国の百姓31万4千人を雇う。
785年 延暦4年 7月24日 国司の正税流用を禁止する。
785年 延暦4年 8月23日 太政官院の垣を築いた大秦宅守に叙位。
785年 延暦4年 9月23日 藤原種継暗殺される。同月24日犯人大伴氏ら数十人逮捕。同月28日早良皇太子廃し、乙訓寺へ幽閉。この後皇太子自ら断食し、10余日後淡路島に流される途中、高瀬橋頭で没する。
785年 延暦4年 10月4日 班田収授のため、五畿内に使を派遣し、検田する。
785年 延暦4年 11月25日 安殿親王(のちの平城天皇)立太子。
786年 延暦5年 1月21日 近江国滋賀郡にはじめて梵釈寺を造る。
786年 延暦5年 4月11日 諸国の調・庸等の税の未納について、国司・郡司の怠慢を責める。
786年 延暦5年 5月3日 左・右京および東・西の市人に物を賜う。
786年 延暦5年 6月1日 諸国の正倉の火災について、国司の責任を明確にする。
786年 延暦5年 7月19日 太政官院が完成する。百官はじめて朝座につく。
786年 延暦5年 8月8日 蝦夷を攻めるため、この時より約2年間、東国にて兵士・武器・物資の準備を進める。
786年 延暦5年 9月18日 渤海国の使、船一隻に乗って出羽国に漂着する。
786年 延暦5年 9月29日 五畿内の班田長官を任命する。
787年 延暦6年 閏5月11日 左右京職の税の濫用を禁止し、交替時に解由状を与えることとする。
787年 延暦6年 10月8日 「水陸の便なるをもって都をこの邑に遷す」の詔あり。また賑給・減税・賜爵を行う。
787年 延暦6年 11月5日 天神を河内国の交野に祀る
788年 延暦7年 9月26日 「水陸の便あって都市を長岡に建つ。しかも宮室未だ就らず、興作いよいよ多くして徴発の苦すこぶる百姓にあり」を詔して、減税を行う。
788年 延暦7年 12月7日 征東大将軍紀古佐美、節刀を賜わり蝦夷へ出征する。この年、最澄、比叡山寺を草創、後に延暦寺と改める。
789年 延暦8年 1月6日 五位以上、南院で節会。これより後、南院(南園)でしばしば宴が催される。
789年 延暦8年 1月17日 この頃「造東大宮所」が東大宮(第2次内裏)を造る。(長岡京跡左京第51次調査出土木簡No216)
789年 延暦8年 2月27日 天皇、西宮(第1次内裏)より、はじめて東宮(第2次内裏)に移る。
789年 延暦8年 3月1日 造宮使、お酒食等を献上して祝う。
789年 延暦8年 3月9日 軍を多賀城に集結し蝦夷を攻める。この後6月3日北上川畔で大敗し、9月4日征東大将軍帰還。
789年 延暦8年 3月16日 造東大寺司を廃止する。
789年 延暦8年 7月14日 伊勢・美濃・越前の三関を廃止する。
789年 延暦8年 11月9日 造宮大工物部建麻呂に叙位。
789年 延暦8年 12月28日 桓武天皇の母高野新笠没する。翌年1月15日大枝山陵に葬る。
790年 延暦9年 閏3月4日 蝦夷を攻めるため、これより約2年間、諸国に命じて武器・軍糧を準備させる。
790年 延暦9年 閏3月10日 皇后藤原乙牟漏没する。31歳。同月28日長岡山陵に葬る。
790年 延暦9年 10月2日 再び鋳銭司を設置する。
790年 延暦9年 11月3日 税の欠負未納を補塡する公廨稲の割合を設定する。
791年 延暦10年 3月6日 吉備真備・大和長岡らによる刪定律令24条を施行する。
791年 延暦10年 4月18日 山背国内の諸寺の塔を修理する。
791年 延暦10年 5月29日 翌年の班田に備え、国司・王臣家・殷富百姓が下田を上田に換える等の不法を改める。
791年 延暦10年 6月25日 延暦3月12日に続き再び山野独占の禁令を出し、山背国の百姓の山野利用の便をはかる。
791年 延暦10年 8月5日 畿内の班田使を任じる。
791年 延暦10年 9月16日 平城宮の諸門を壊し運んで長岡宮に移し造らせる。
792年 延暦11年 1月9日 天皇、諸院を巡行し、猪隈院にて五位以上に弓を射さす。
792年 延暦11年 6月7日 諸国の兵士制を廃止し、同月14日健児をおく。
792年 延暦11年 6月10日 皇太子の病を占い、「早良親王の崇り」とでる。
792年 延暦11年 6月22日 式部省の南門、激しい雷雨で倒れる。
792年 延暦11年 8月9日 大雨・洪水で桂川等あふれる。
792年 延暦11年 8月11日 天皇、紀伊郡赤目崎にて洪水を視る。
792年 延暦11年 10月28日 京畿に限って班田を実施し、細則を一部修正する。
792年 延暦11年 閏11月1日 新弾例83条を施行する。
793年 延暦12年 1月15日 大納言藤原小黒痳呂、左大弁紀古佐美らを遣し、遷都のため山背国葛野郡宇太村を視る。
793年 延暦12年 1月21日 宮を壊体するため天皇東院に移る。
793年 延暦12年 2月2日 遷都を賀茂大神に告げる。
793年 延暦12年 3月1日 葛野の行幸し、はじめて新京を巡行する。
793年 延暦12年 3月12日 新京の宮城を築かせる。6月23日には新宮の諸門を造らせる。
793年 延暦12年 7月7日 馬埒殿で節会の相撲あり。
793年 延暦12年 9月2日 新京の宅地を班給する。
794年 延暦13年 6月13日 副将軍坂上田村麻呂ら、蝦夷を坆めて勝利を得る。
794年 延暦13年 7月1日 東・西の市を新京に移す。
794年 延暦13年 8月13日 右大臣藤原継縄ら「続日本紀」を撰修する。
794年 延暦13年 10月22日 新京(平安京)に遷る。

 

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