都の10年

更新日:2018年7月2日

測る 長岡京の条坊制

 乙訓の地に営まれた日本の首都、長岡京はどの様な設計図に基づいて造られていたのでしょうか。

 長岡京全体は、天皇の住まいである内裏と官庁街からなる宮城(大内裏)、小規模な役所や貴族や都市住民の居住域である京域に分けられます。

 宮域は、京の北側中央に設けられた東西約1キロメートル、南北約1.6キロメートルの範囲で、周囲を築地大垣に囲まれています。築地大垣には、宮城門が設けられています。宮は南面中央に大極殿と朝堂院、東側に内裏、これをとり囲むように主要官庁が配されています。北辺部には税金である米や特産品など物資を納めておく倉庫(大蔵)群が建てられています。また、宮の北側には園地(北苑)が広がっています。

 京域は、東西4.3キロメートル、南北5.3キロメートルの範囲です。南北のメインストリートである朱雀大路の東側を左京、西側を右京と分けていました。京域は、基本設計図である条坊制に基づき、大路(幅24メートル)と小路(幅9メートル)が東西南北に規則正しく配置され、道路に囲まれた一辺約120メートルの土地(一町,面積14,400平方メートル)を基準にして施設が配置されました。小規模な役所や離宮、高級官僚(貴族)の邸宅、都で働く人々の家々、勤務する兵士の駐屯地や寺院、東西2箇所の市などが設けられています。

 この基本設計図である長岡京の条坊制は、平城京でも、平安京とも異なる「長岡京型」であることがわかってきました。

 平城京の設計図は、碁盤目状の計画線から最初に大小の条坊道路(街路)を確保して残った部分を宅地に当てる方法(分割型)です。貴族や上級役人の居住を想定して作られていたために、都で生活する者が増え、一町を細分して宅地化すると、元の宅地が大小不揃いなため、均等に分割しようとしてもうまくいきません。そこで長岡京の設計図では、宅地の大きさができるだけ同じになるように道路を配置しています。また、増え続ける役所群を宮城に近接して配置するようにしました。これは都を管理する上からも都合がよかったものですから、平安京では規定の大きさの宅地と道路を配置する方法(集積型)が採用されています。

 このように条坊制が、時代の変化に応じ、長岡京の段階で大きく変化したことがわかってきました。

書く 役人と官人

 中国では、文字の記録をつかさどる下級官人を「刀筆の吏」と呼びます。筆と小刀が必需品であったことから名付けられました。長岡京にも刀筆の吏と呼んでよい6000人以上の中・下級官人が働いていたと想像できます。彼らは、それぞれ役所に配備され、四等官(長官・次官・判官・主典)と呼ばれる上司のもとで、庶務や経理といった事務、そして技能を活かした仕事に取り組んでいました。

 長岡京左京三条二坊八町(向日市鶏冠井町沢ノ東一帯)には、京内に置かれた太政官(行政の最高機関)付属の役所がありました。「太政官厨家」と呼ばれました。この役所は、太政官の台所であり、役所独自の財源となった「地子物」の収納、保管、経理を主な仕事としていました。ここで、史生としていわば書記のような仕事をしていた下級官人の中に、軽間嶋枌という人物がいました。彼の仕事は、各地から地子物として運ばれた米や塩など貢進物の内容を送り状となる木札(木簡)の内容と照合し、記録することでした。また、書生(書記)の食料を上級の役所に請求することも彼の仕事でした。その仕事ぶりは遺跡から発見された多数の木簡から知られます。もちろん、彼の必需品は、筆と硯、そして木簡の文字を削り、加工するための刀子です。  長岡京の役所の特徴は、宮に近い京域に物をつくり、加工する役所や兵士の駐屯地が置かれたことです。金属器の工房、仏具・調度品の工房など官営工房が発見されています。ここでは、舎人と呼ばれる現場で仕事をする官人や諸博士、庶生、諸工といった特殊技能をもつ官人が働いていました。また、位階をもたない官人もいたと考えられます。線刻土器は、意志伝達を言葉や記号でしか行えない非識字層が施したものと考えられています。このように、あらゆる階層の人々が働き、都の生活を支えていました。京域に役所を置く長岡京の利用形態は、平安京の「諸司厨町」原型となったみられます。

 文書の世界に生きる官人が円滑に仕事を進めるためには、「読み書き」が必修条件です。都が政治・経済の中心地として機能するため、そして昇進を願って、彼らは日夜文字を学び、書きました。中央と地方の結びつきを強め、律令体制の再建をもくろんだ光仁・桓武天皇の時代、この官人達の心得は一気に広まり、全国的に文字が普及しました。

広げる 東北経営

 8世紀に入り、天皇を頂点とする国家づくりをめざす天皇や中央貴族たちは、大宝律令に基づく支配体制を全国的に広げました。しかし、古来より大和朝廷との結びつきが弱かった蝦夷(現在の東北地方で生活していた民衆)は、権力に抵抗し、たびたび反乱を起こしていました。日々激しさを増す朝廷と蝦夷との対立は、光仁天皇の時代である宝亀11年(780年)に起きた伊治呰麻呂の乱をきっかけとして、本格的な武力衝突の時を迎えこととなります。

 伊治呰麻呂の乱直後に行われた第1回目の遠征では、朝廷側は数万の兵を動員し戦いに臨みましたが、結果は朝廷軍の惨敗に終わりました。

 その頃、都では、光仁が位を退き桓武天皇の時代でした。桓武は、父の代からの悲願である東北経営にも積極的に取り組みました。

 都の「造作」と東北経営に関する「軍事」、この二大事業には、桓武新王朝の成立並びに権威を内外に示す大きな意味が込められていたと言えます。

 桓武は、先の敗戦後約2年間を、物資の準備に費やし、延暦7年(788年)、紀古佐美を征東大将軍とする軍を再び蝦夷の土地へ送り出しました。翌延暦8年(789年)には5万人の兵を鎮守府であった多賀城に集結させ、阿弖流為率いる蝦夷軍と戦いましたが、北上川畔(宮城県)でまたも大敗を帰しました。

 2度の敗戦で朝廷は、兵力のみならず財政面でも苦しい状況に陥りました。しかし桓武天皇はこのプロジェクトをあきらめてはいませんでした。その証拠として、敗戦の翌年から物資の準備を開始し、征夷大使に大伴弟麻呂、副使に坂上田村麻呂らを任命しています。

 万全の体制で臨んだ3回目の攻撃は、都が平安京へ遷都されるのと同じ延暦13年(794年)に行われました。10万の兵士が動員され、前線の指揮官坂上田村麻呂の功績もあり、勝利をおさめることができましたが、決定的な戦果は得られなかったようです。

 そこで延暦20年(801年)、とどめを刺すかのように4度目の遠征が行われました。この戦闘では征夷大将軍となった坂上田村麻呂率いる軍勢の活躍で、蝦夷の首長阿弖流為らは降伏し、 延暦21年(802年)、東北支配の基盤となる新たな鎮守府胆沢城が築城されました。ようやく、蝦夷は平定され、長かった戦の時代に終止符が打たれたのでした。

納める 税制度

 延暦3年(784年)6月10日に、政府は中納言藤原種継らを造長岡宮使に任命し、宮殿・都城の造営を開始しました。やつぎばやに工事は進みます。宮内に入る百姓を立ちのかせ、人夫や建築資材を運搬するため、山崎橋を架け陸路を整備し、さらに運河の大規模な改修工事に着手します。

 しかし、政府のあまりの手際のよさに驚かされるのは、6月13日に「今年度の税(調・庸)と造営人夫用の物資を長岡宮へ運ぶよう」全国に命令を下したことです。調は中央政府に納める税で国家の運営費の中心を占め、役人の給与ともなります。役人が住み慣れた平城宮から移るのを嫌がれば、今年の給与にありつけないことになるのです。平城宮にはもう税を運ばないとの命令は、本年中に長岡に遷都するという政府の堅い決意を内外に示すものでした。

 古代の税には、物で納める物品税と、成人男性が労働で支払う力役があります。そのうち全国の人民が中央政府へ納める物品税には、調(繊維製品・食品・鉄製品など地方の特産物)、庸(都で力役をする代りに納める布・玄米・塩)があります。その他に負担する税として中男作物(18才~21才の男子が負担する地方の特産物)、地子(公田賃貸料の米・塩。都から遠い国は軽貨に交易して運ぶ。)、贄(天皇家に献上する食品)、出挙(主に国府の運営費となったが、一部を中央官庁の役人用に白米に舂いて納める)などがあります。

 都には、運ばれた税物を保管・管理する様々な役所があり、付属する倉庫を備えています。調・庸布・中男作物などは大蔵省の倉庫に保管され、食品は宮内省に属する大膳職へ分納されます。贄は内裏の贄殿と宮内省の内膳司へ、庸米は民部省の廩院とよばれる米倉に、それぞれ蓄えられます。

 代表的力役には、仕丁(中央官庁で種々の雑役に従事)、衛士(兵士として都の警備)があります。 長岡京跡を発掘すると、太政官厨家、春宮坊、造宮使関連施設などいくつもの役所跡から、税物に付けて都に運ばれた大量の荷札木簡が出土します。荷札には地名、税の種目、税負担者の名前、年月日などが記されています。調・庸は、税負担者の家族が食料自弁で都まで税を運搬しなければならず、その負担も大変なものでした。

作る 生産と技術

 長岡京内には、貴族や一般庶民が住んでいるだけではなく、さまざまなものを作る工房もあったことがこれまでの調査でわかっています。これらが個人的な生産施設なのか、官営の工房なのかはそれぞれに検討を要しますが、京内各所から出土する生産に関わる遺物を見ると、都での人々の生活がいきいきと思い浮かんできます。

 平安京では、「諸司廚町」と呼ばれる官衙町が宮の周辺に形成されており、この官衙(役所)の中には、宮内省では造酒司・鍛冶司・木工寮、大蔵省では漆部司・典鋳司など、製造に関する役所も多くあります。また「市」の周辺にも工房が集まっており、「外町」と呼ばれています。このような平安京での様相が、長岡京の延長線上に位置するのは言うまでもありません。

 作るものでまず挙げられるものに瓦があります。長岡京造営は最初建物の移建から始まりますが、延暦10年(791年)以降の第二次造営として長岡宮式軒瓦の生産が始まります。右京五条四坊十三町付近の谷筋を登ったところに谷田瓦窯群があります。ここ奧海印寺谷田では瓦窯の存在が古くから知られており、立会調査によって窯の破片などが大量に採集されています。ここで焼かれたのは7133型式軒丸瓦、7757型式軒平瓦を中心とした瓦です。ほかに「寺院系軒瓦」と呼ばれる一群もありますが、これらについてはまだどこで生産されたかはわかっていません。

 右京六条三坊二町では大規模な鋳物工房が発見されています。ここでは12基の鋳鉄炉が次々と作り替えられていった跡に大量の炉壁片が投げ込まれていました。また左京二条二坊八町で見つかった工房では、炉の破片とともに「雨壺」と呼ばれる装飾釘の鋳型が出土しています。

 漆の付着した土器など、漆を扱った工房に伴う遺物も数カ所で見つかっています。

 もっとも多く出土する土器類は、亀岡市・篠古窯跡群など、都の周辺で生産されたようです。中には遠く離れた愛知県・猿投古窯跡群の製品も持ち込まれています。猿投ではこの頃から灰釉陶器の生産が盛んになり、優品が多く作られるようになります。

 人が多く集まる都では、大量の物資が必要となりますが、この様に都の内外で供給する体制が整えられていたのです。

装う 装飾の制度

 現在では、場所柄さえわきまえれば自由に服が選べます。しかしこれは長岡京の時代には通用しませんでした。古代には、「衣服令」という服装に関する規定があり、官人はその位階に応じて、服の色、材質、さらに履き物から頭巾、装飾品に至るまで細かく決められていました。特に服の色に関しては最も細かく、当時の服飾制度の基本が色(材質)であったことが判ります。もしこれら衣服、あるいは持ち物が見つかれば、その人の官位や官職が推定でき、場合によっては個人名まで特定できるかも知れません。しかしながら実際に発掘調査で衣服が見つかることはほとんどなく、長岡京では誰がどこに住んでいたかは不明な点が多いのです。ただ手掛かりがないわけではありません。先に述べた規定の中には帯に関するものがあり、その表面に付けられていた飾りにも位によって差があるのです。発掘調査ではこの帯飾りが比較的多く発見される遺物なのです。

 先の「衣服令」では、五位以上は金銀で飾られたもの、六位以下は「烏油」即ち表面に黒漆を塗った銅製のものを使用するように規定されています。服のように細かくは分かれていませんが、これにより出土地点付近にいた人物のある程度のランクが判るわけです。ところで、長岡京の時代にはこの帯飾りに変化が起こります。つまりそれまで金属製であっものが、石製へと変化するのです。これまでこの変化は都が平安京に移ってからと考えられていましたが、少なくとも長岡京で行われていたことが判明しました。長岡京の実態から見ると、六位以下は黒い石、五位以上は色の付いた石の帯飾りをしていたようです。もちろん金属製帯飾りがすべてなくなったわけではなく、少量ながらも出土しています。また上級の貴族は金銀の飾りをつけていた可能性はありますが、出土例がないため実態は不明です。いずれにせよ帯飾りは奈良時代での五位以上と六位以下の大別が踏襲されていたようです。

 その後平安時代に入ると、さらに変化が起こります。ほんの一握りの上級貴族にだけ、白玉の帯が許されます。つまり新たなランクが設定されたわけです。そして金属製の帯飾りは、新しい銅銭(隆平永宝)の鋳造を理由についに禁止されてしまいます。これら桓武朝の服飾制度の一連の変化には、おそらく何らかの政治的背景もあったのでしょう。

動く 交通

 「朕以水陸之便遷都慈邑」、これは延暦6年(787年)10月に桓武天皇が詔したことばです。長岡の地に遷都した理由を、水陸交通網が発達した非常に便利な場所だからといっているのです。当時、国の首都を決める立地条件として交通の便がそれほど重視されていたわけです。それでは、長岡京の交通体系は具体的にどの様になっていたのでしょうか? 都から各地方に向かう官道(国道)が整備されていました。都の北方からは山陰方面に向かう山陰道、東方からは横大路を経由して東海・東山・北陸道、南方には山陽・九州地方に向かう山陽道が延び、大山崎で山陽道から分岐した道は淀川に架かる山崎橋を渡ると紀伊・四国地方に通じる南海道へとつながっていました。さらに水陸の便としてその山崎橋のたもとにある山崎津を整備し、船による大量輸送に対応できるようにしました。都を造るにあたってまず必要なことは、造営の物資を速やかに運び込むことです。難波宮や瀬戸内海沿岸の国々から運ばれた建築資材や瓦などを陸揚げしたのが山崎津でした。ここからは陸路、都の中心まで車を使って荷を運んでいきました。また、京内の津(港)の存在が長岡京跡左京第203次調査で明らかになり、数百点に上る木簡の出土によって都の造営にあたって物資の荷揚げ場として、また資材の加工場として重要な役割を果たしていたことがわかりました。このようにして、方々から多くの物資が都に集められたのです。

 さて、こうして整備された水陸交通網は、国の政治や経済、都で暮らす数万人の人々の暮らしを支える役を果たすことにもなりました。京内の津周辺で出土する遺物の中には「都の外から運ばれてきた物」があります。税として徴収された塩は製塩土器に詰めたまま持ち込まれました。主な産地は和泉・讃岐・紀伊・筑前などがあります。また尾張の猿投窯・和泉の陶邑や生駒山西麓、丹波の篠窯などから優れた食器類や煮炊用の釜・かまどなどが運ばれてきました。都に住まう貴族たちの食膳には各地から運ばれてきた美しい食器類が並んだことでしょう。また、都の東と西に置かれた市場では諸国の産物が並び、上京してきた人々や都人の目を楽しませたことでしょう。このように長岡京は文字通り発達した水陸交通網に支えられて大いに賑わっていたのです。

祓う 都の精神生活

祭祀(マツリ)

 日々の不安や悩み、天候異常や病気や災い(怨霊)への恐れ、平安無事であることへの願い。これらの感情は、現在もさほど変わるところがありませんが、古代の人々にとって、厄災(神)は外からやって来るものだと信じられていました。それ故、これを除外することを目的として様々な祭祀具をもちいて、祭祀(これを祓や禊と呼びます)を行いました。

祭祀の時期と場所

 厄災(神)は外から来ると言いましたように、ここには「内と外」を別ける意識があります。それ故、祭祀は主に時間や空間の境界(変化点)で行われることが多いと言われます。時期に関しては、季節の変わり目に行われる節分や七夕などの節会、6月と12月の晦日の大祓など時期の定まった祭祀がある一方、誕生や死去、病気や物忌(不吉なことがあったときに、家で謹慎する行為)など急な状況の変化に伴う祭祀があります。場所に関しては、都の中心である宮内(天皇による祭祀)、宮と京を隔てる二条大路(馬を犠牲に供した大がかりな祭祀など)、西山田遺跡、大藪遺跡など京と京外の境目付近(大量の祭祀具を用いた祭祀)などの場所で国家的とも言える祭祀が行われています。また、各町々の交差点(異人や異物が交わる場)や個人の家の片隅や門前や井戸などでも小規模な祭祀が行われています。

祭祀具

 自分や他人の身代わりとした人形、病気などの穢れを封じ込める墨書人面土器、雨乞いや水鎮めのための土馬、神を招いたり、聖域を区画するための斎串、竈神(家内神)をまつるミニチュアカマド、力の象徴である刀や鏃、モノを運ぶ象徴である船や鳥や馬などの形代、家に悪霊を寄せ付けないために出入りを禁じたことを示す物忌札、子供の成長を願い胎盤を納め土中に埋納した胞衣壺、家の安泰を願う地鎮のために用いられた食器類などがあります。

時代的特徴

 古代の祭祀は、国家がこれを主導したところに特徴があります。長岡京では祭祀具の形の変化(土馬の縮小および簡略化、人形の大きさの規格化など)などから、奈良時代に行われていた祭祀が規格的(形骸的)なものに変わることが分かります。また、物忌など平安時代につながる新たな祭祀が始まったことを知ることができます。
 

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