長岡京:いざない
更新日:2018年7月2日
長岡京
みなさんは、「長岡京」という言葉で、何を思い浮かべますか。「平安京直前の都。桓武天皇が延暦3年(784年)から延暦13年(794年)まで、京都西南部の乙訓の地に置いた都。そして、10年間という短命な都」。しかし、この説明の後に続くものは、必ずと言ってよいほど「幻の都」という表現でした。
幻の都への固定観念
古代の都の研究は、平安京が中世以来、平城京が江戸時代と意外に古くから始まっています。これに対して、長岡京の研究は、明治40年代(1908年)の喜田貞吉の研究からでした。しかし、『日本後紀』が長岡京の時代の後半部分の記述を欠くなど、基本的な研究材料が乏しかったため遅れていました。
限られた史料で描かれた都のイメージは、その短命さも手伝って、「未完の都」、「幻の都」でした。
現の都への挑戦
喜田貞吉の研究より約50年後、中山修一は長岡京の研究を飛躍的に発展させました。中山は、歴史地理学の立場から、長岡京の痕跡を現地に求めました。昭和30年(1955年)に初めて長岡京に発掘調査というメスを入れ、現の都であることを身をもって示しました。『類聚三代格』記載の宅地名を現地で比定し、長岡京の条坊図を復原したのです。その後、この復原図をもとに、大極殿、朝堂院、内裏など主要な遺構を次々と発見し、長岡京の存在を確定的なものにしました。これらの主要な遺構は、現在でも、国の史跡として指定され保存されています。
平成16年(2004年)3月現在、長岡京に関する発掘調査は、約2200回を数えます。一つの都城遺跡に対して、これほど多くの発掘調査が実施されている例はありません。その結果、文献史料には残っていない都の実像が解明され、決して「幻の都」ではなく現の都として認識されました。
遺跡としての長岡京、都市としての長岡京
発掘調査と研究により解明されつつある長岡京の姿。新事実が一つ明らかになれば新たな課題が生まれます。21世紀の調査と研究は、事実を正しくとらえ、その都度課題を整理することが望まれます。少なくとも都市機能を十分に備えた、ほぼ完成された都という視点で、解明していかなければなりません。
時代 | 天皇 | 在位期間 | 都 |
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飛鳥時代 | 推古(女帝) | 592-628 | 不明 |
飛鳥時代 | 舒明 | 628-641 | 不明 |
飛鳥時代 | 皇極(女帝) | 642-645 | 飛鳥板蓋宮 643- |
飛鳥時代 | 孝徳 | 645-654 | 難波宮 645- |
飛鳥時代 | 斉明(女帝) | 655-661 | 飛鳥板蓋宮 655- |
飛鳥時代 | 天智 | 661-671 | 大津宮 667- |
飛鳥時代 | 弘文 | 671-672 | 不明 |
飛鳥時代 | 天武 | 673-686 | 飛鳥浄御原宮 673- |
飛鳥時代 | 持統(女帝) | 686-679 | 藤原京 694- |
飛鳥時代 | 文武 | 697-707 | 藤原京 |
飛鳥時代 | 元明(女帝) | 707-715 | 藤原京 -710 平城京 710- |
奈良時代 | 元正(女帝) | 715-724 | 平城京 |
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