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戦時中の様子を写真をもとに紹介します。
日付は写真が整理されたアルバムのメモ書きから。この写真を使った絵葉書が別にみつかり、そこに「意気剛邁の国民体操」という説明が付いていました。男女の全校生徒で、運動場が埋め尽くされています。7月7日は、日中戦争の発端となった蘆溝橋事件の当日にあたります。
日付は写真が整理されたアルバムのメモ書きから。この写真を使った絵葉書が別にみつかり、そこに「戦火烈々(三年の演習)」という説明が付いていました。7月に日中戦争が始まっており、その3か月後に、このような戦場での戦闘さながらの模擬演習が行われていたことになります。
飛行機献納運動は戦時中に何度も取り組まれますが、昭和12年9月頃に向日町青年団で献納のため古本や古新聞を集めている記録があります。この場所は向陽校の雨天体操場とみられます。
昭和2年(1927年)4月に向日町寺戸西野辺に開校していた西山高等女学校(現在の京都西山高等学校)の生徒が、勤労奉仕のために、学校から先生に引率されて町内森本地区へでかけた時の記念撮影。後ろの大きな柳の木の横の建物は、小字四ノ坪にあった森本区事務所。
昭和6年(1931年)の満州事変勃発以降、大阪で始まった大日本国防婦人会の活動は、かっぽう着にたすき掛けを会服とし、銃後の婦人による戦争協力組織として全国に広がりました。その後、昭和17年2月に、先にできていた愛国婦人会などと統合して大日本婦人会となります。
この写真に写るたすきには、「大日本国防婦人会」の「国防」の文字を布で隠すか、「大日本婦人会」とあるので、統合以降に撮影されたものとわかります。昭和17年3月末日に向陽国民学校に赴任した豊田忠一校長の姿が中央にみえます。
前年の年末から向日町をあげて軍用機を献納する募金活動に取り組み、この日、向陽校で陸軍第十六師団幹部も参列して、「勝山号」と名付ける命名式が盛大に行われました。
戦闘機のエンジンを作っていた桂の三菱重工業京都製作所へ動員された時の作業服姿。1学年上の生徒は寺戸修理式にあった井上電気製作所へ動員されたそうです。井上電気には向陽校の男女児童も動員されたと当時の新聞は伝えています。
年代や内容ははっきりしませんが、青年団や婦人会の訓練風景とみられます。
向陽校の奉安殿と国旗掲揚塔の前に、自転車を横に整列する部隊が写っています。昭和19年(1944)頃に向陽校在校生であった方々の記憶では、終戦間近の向陽校には軍隊の自転車部隊が駐留しており、児童らは校舎が使えず、小人数に分かれて地区内のお寺で勉強したそうです。
後ろにみえているのは、戦時中に運動場西のがけ面を掘って作られたという防空壕の入り口。