更新日:2019年11月27日
氏名 | 中学校名 | 学年 | 題名 |
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緩詰 晃太 | 西ノ岡 | 1年 | 僕を強くするもの |
生嶋 紗采 | 勝山 | 2年 | 青少年犯罪について |
吉村 聡 | 寺戸 | 3年 | 外国人とのコミュニケーション |
氏名 | 中学校名 | 学年 | 題名 |
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向井 琴咲 | 寺戸 | 1年 | 一生懸命 |
五十棲 直子 | 勝山 | 2年 | 食べ物への感謝の気持ち |
木村 摩星 | 寺戸 | 3年 | 家の歴史は町の歴史 |
氏名 | 中学校名 | 学年 | 題名 |
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植田 あかり | 西ノ岡 | 1年 | 家族のかたち |
樋口 彩華 | 西ノ岡 | 2年 | カビの生えた白菜、穴のあいたキャベツ |
杉浦 公佳 | 西ノ岡 | 3年 | 勿体ない力 |
「俺もがんばるから、みんなもがんばれ。」
これは、サッカーW杯日本代表の本田圭介選手が高校3年生の時、高校選手権の試合前に、チームのみんなに言った言葉です。僕はこの言葉と、そのときの本田選手の思いについて考えました。
この前年の高校選手権で、本田選手は1、2試合目でのイエローカードの累積による3試合目の出場停止を受けました。そして、そのままチームは敗退してしまいました。本田選手は自分だけで戦おうとしたことをとてもくやみました。この時、『仲間』というものの存在に気付いたのだと思います。だから、翌年の高校選手権でこの言葉を言ったのではないでしょうか。これは、「昨年の自分を反省している。『仲間』と共に戦う。」という気持ちをこめた言葉だったと思います。
僕は、『仲間』とは人にはなくてはならない存在だと考えます。なぜなら、どんなに不安で仕方がない時でも、一声かけてくれるだけで、とても安心できるからです。
僕は小学6年生の時、運動会の応援団長を務めました。本番前は、声は出るだろうか、間違えないだろうかと、不安に襲われました。しかし、家族やクラスの人が「がんばれよ。」「一生懸命、練習してきたしな。」と声をかけてくれました。すると、何だかできるような気がしてきたのです。不安な時に支えてくれる、それが仲間だと思います。
みなさんにも必ず不安になる時や、悲しくなる時があるはずです。そんな時に、心をいやしてくれる楽しい仲間や、一緒にいると安心できる仲間はいますか。大切にできる、自慢できる仲間はいますか。
みなさん、今となりにいる仲間をもっともっと大切にしてみてはどうですか。そうすれば、共にいれば安心できる、一生一緒にいたいと思える仲間がたくさんできて幸せになれる。僕は、そう考えます。
みなさんは、最近起こった恐ろしい事件を覚えていますか?被害者も加害者も私と年の近い高校生の事件が連続して発生しました。横浜の女子高生は、相手が意識不明になるくらいわき腹を刺しました。山口県の男子生徒は、背後から何度も刺しました。「うるさい」「イライラした」これが、相手を刺した理由です。
私は、この事件をテレビのニュースで聞いた時、信じられないという気持ちでいっぱいで、「どうして?」と思いました。犯人は、恐ろしい殺人犯でも、大きな大人でもなく、同級生でクラスメイトのおとなしい女の子。国語の授業中に、座ったままのとなりの子を、思いっきり刺したなんて・・・と思いました。
そして、刺した理由を聞いて、もう1度、「どうして?」と思いました。なぜならそんな事、私だって何度も思ったことがあったからです。大きな声でさわぐクラスメイトに、「うるさいなぁ」なんて、誰でも思うことがある感情です。それがどこで、相手を刺したいくらいの気持ちになってしまったのでしょうか?
その子は、「静かに勉強がしたかったのだろうか?」「友達のことを悪く言われて、腹が立ったのだろうか・・・?」「机の上にカバンを置かれたことがイヤだったのだろうか?」 最初は、小さな小さな黒いもやもやした思いが、色々な相手の行動や自分の思いのすれちがいで、大きな黒いかたまりになってしまったのでしょうか・・・?
この事件が起こった学校の集会で、「集団には、自分とちがう考えをもつ人や、ちがう表し方をする人もいる。お互いを思いやりましょう。」と呼びかけがあったそうです。みんな同じ行動、同じ考え方であったらおかしいし、おもしろくありません。みんな、ちがうからこそ友達どうしひかれあい、刺激しあい、楽しめるのだと、私は思います。
みなさんは、知らない間に誰かをきずつけていないでしょうか?私は、自分の行動や言葉が、誰かをきずつけてしまうかもしれないということを、心にとめて行動したいと、強く思いました。
Excuse me can you speak English?
みなさんはもし、このように外国人に話し掛けられたら、どう反応しますか?僕は学校で英語を学んでいるので、意味もわかるし、どのように答えたらよいかも習いました。しかし、本物の外国人と話すとなると、やはり戸惑うと思います。人との会話は、互いにコミュニケーションをとるための、最も大切な手段です。しかし、もし相手が言葉の違う国の人だったら、どのようにコミュニケーションをとるのでしょうか?
両親の職業柄、僕は今までにたくさんの外国人と接することが出来ました。そしてその大半は英語を話す人でした。しかし、僕のほうから積極的に話すことは、ほとんどありませんでした。けれども、今回の弁論大会にあたり、その人にいろいろインタビューをしました。僕のほうは、今まで習ってきた英文や単語を並べて質問し、外国人の方は、辞書を使って日本語で答えてくださったりして、時間を掛けて、話し合いました。そしてその人が一生懸命答えてくださる姿を見た時、僕は思いました。(あっ言葉が違っても、その人とつながろうとすること、それってコミュニケーションじゃないか)と。この時、コミュニケーションは会話だけではない、その人とつながろうとするその姿勢が大切であると気付いたのでした。
では、みなさんは、外国人と話す時、どのようなことに注意していますか?僕はこの質問を彼らにもしました。その答えとして、「英語にはない、日本語特有の丁寧語を意識する」「日本人の発音に合わせた英語を話している」「日本の会話のノリを意識している」などを挙げていました。その中で、「日本人の発音にあわせたカタカナ英語を話している」という答えが僕の耳に留まりました。僕達が外国人と話す時、色々な事に注意して話していますが、実は相手の外国人のほうも、僕達に分かってもらえるよう、会話してくれていたことを、初めて知りました。僕は感動すると共に、自分は外国人とコミュニケーションをとろうとしてこなかったことを反省しました。
今、日本に居る外国人は、もっと日本人と親しくなりたいと思っているはずです。彼は、さらにこう言っていました。「日本人が、私たちに関心を示して話し掛けてくれるのは嬉しい。」と。彼らは決して、私達が完璧な文法や発音でなくても、会話をしようとするその姿勢を汲み取ろうとしていたのです。それなのでこれからは、もっと外国人とコミュニケーションをとっていきたいと思います。そして、よりよく理解できる為に、日々の英語の授業も真剣に受けていきたいと思いました。
Thank you for listening to my speech.
ありがとうございました。
私の目標は『一生懸命』です。この一生懸命には3つあります。
一つ目は勉強に一生懸命です。中学校に入ると勉強が難しくなりました。授業内容も増え、さらに授業時間も長くなり、とても大変になりました。特にテスト期間になると勉強を長時間やらなくてはならないので、いつもの倍大変になります。大変だし難しいから、授業中しゃべり、自主勉強をやらないというのではなくて、大変だし難しいからこそ、授業には集中し、自主勉強に『一生懸命』取り組みたいなぁと私は、思っています。
二つ目は、部活動に一生懸命です。私は、バドミントン部に入っています。毎日、ノックや基礎打ち、パターンなどの練習をしています。どの練習も、とてもきつくて、しんどいです。だけど、きつくてしんどい練習をしないと、自分の力にはならないと思います。だから、シャトル一球一球を大切に返し、大きな声を出して、部活動を『一生懸命』がんばりたいです。
三つ目は、相手のために『一生懸命』です。この相手のために一生懸命とは、相手が困っていたら一生懸命助けてあげ、力になってあげたいという意味です。これは6年生からの目標です。いつも相手のことを考え行動できる人になりたいです。
この三つは、私にとってとても大切な、『一生懸命』です。一つ目の勉強のことも、二つ目の部活動のことも、三つ目の相手に対してのことも、どれも私は、とても大切だと思います。三つすべて実行できればいいけれど、今はできていないと思っています。だけど、少しずつ目標に近づけていけたらいいなぁと思っています。そのために毎日、意識することから始め、その日その日、何か一つ一生懸命に取り組み、少しずつ実行していきたいです。この目標が達成できたら、それを続け、今度は、もっと高い目標を持ち、自分を良くしていきたいです。この目標を達成するため、今は、三つの『一生懸命』を毎日がんばりたいです。
「いただきます。」
「ごちそうさま。」
食べる前と後にこの言葉を言わないと祖母に注意されます。それに食べ物を残すと、「もったいないねぇ、いつでも食べ物への感謝の気持ちをもってなあかんよ。それに食べたくても食べられん人が世界にはたくさんいるんだから。」と必ず言います。何度も祖母から聞いていたので、いただきますとごちそうさまはちゃんと言うようにしています。しかし今、食べ物への感謝の気持ちを忘れている人が多いと感じることがあります。
まずいただきますとごちそうさまを言わない人がとても多いことです。学校でも言っている人は少ししかいません。友達に理由を聞くと、「そんなん言うてたら恥ずかしいやん。それに子どもっぽいやろ。」と言われました。確かにみんなが言っていないのに自分だけ言うのは恥ずかしいという気持ちは分かりますが、私は言わないことのほうが恥ずかしいと思います。
次に食べ残しの量です。今、日本は一年間に2189トンもの食べ残しが捨てられています。皆さんどのくらいの量か考えてみて下さい。これは国民一人当たり171キログラム捨てているのと同じ量です。しかも捨てられている生ゴミのうち4分の1が手をつけていない食べ残しだそうです。みなさんも経験されたことがあるかもしれませんが、ファミリーレストランなどで、つい多く頼みすぎたとか、嫌いなものは食べたくない、などのことがあるからだと思います。
今、私たちは食べ物がすぐに手に入る恵まれた環境にいます。だからこそ、食べ物への感謝の気持ちが薄れているのではないでしょうか。食べ物があって当たり前ではなく、食べ物があって幸せという感謝の気持ちを忘れないようにして欲しいです。
ある日、母が古いお菓子箱を出してきて中を整理し始めました。そこには、セピア色の小さな写真がいっぱい。「これ誰?」と聞いてみると「うん、おじいちゃん。」と。その写真の中の祖父は、詰襟の学生服を着て、友達と仲良く肩を組んで写っていました。「それ、たぶん明神さん、向日神社で写したんやろなぁ。」「あ、これは・・・競輪場の近くやわ。」「これは・・・おじいちゃんが住んでいた昔の家の前や。」次々に出てくる写真の祖父の後ろには、まばらな家並み、舗装されていない道路、一面の田んぼ、今では面影もなく、想像もできない向日市の風景が写っていました。
「これ、ハリコのお池やわ、知ってる?ハリコの池って主がおるねんで。」と、突然の話に、私は「はぁ?」とあきれかえってしまいました。
母の話によると、主というのはとても大きなフナだそうで、祖父がまだ小さい頃、ハリコの池の水が干上がってしまい、様子を見に行った祖父は、主を探したらしいですが、どこを見ても底に溜まった泥だらけ・・・しばらく日がたって、ハリコの池に水が戻ったという話を聞いた祖父は、気になってまた様子を見に行ったところ・・・池の中で悠々と泳ぐ主を見つけたそうです。「おじいちゃんが言うてたけど、ウソやと思う。」祖父に呆れつつも、母の顔はどこか自慢げでなつかしそうな感じでした。若い祖父の顔、母の小さい頃、そんな家族の写真の中には、その時の向日市がはっきりと写っていました。
今私は、母も歩いた同じ通学路で学校に行っています。母のころとは随分、様子も変わりましたが、今でも住宅街の隅に残る田んぼや、西に望む山並みは変わることなく昔のままです。名所でもなく、観光地でもない家の角や、何気ない町のあちらこちらに、私の家族の思い出があります。
来年、私は高校生になります。私が成長し大人になる頃、そこには、また今とは違った町があることでしょう。どんなに町が変わっても、家族が生きた、私が生きた、そこに人が生きた歴史は変わることなく、今も、しっかり残っています。
もしかしたら、今でもハリコの池には世代がかわった主がいるかもしれません。
私の一番身近で一番大切な家族について話したいと思います。
私は父と母と姉の4人家族です。たまに、けんかをすることもあるけれど、家に居る時間はとても幸せな時間です。でも、世の中にはそんな時間をすごしていない家族がたくさんあります。このごろは親が子どもを殺したり、子どもが親を殺したり、そういうニュースをよく見かけます。なぜ、そんなことをするのか私は考えてもわかりませんでした。だって、いなくなってしまったらなにもできなくなるからです。けんかできるのもおこられるのも生きているからです。私もお父さんやお母さんにたくさんおこられるし、腹を立てたことも何回もあります。例えば、「勉強しなさい。」とか「テスト大丈夫なん?」とわかっているのに口うるさく言われて、すごくムカつきました。だけど家族だからこそ、おこってくれるし、私のことを応援してくれるし笑い合ったり、泣いたりできるのかなと思います。6年生の体育大会のとき友達にけがさせてしまって、家に帰って泣きました。だけど、そんなときお母さんがはげましてくれました。「大丈夫。大丈夫。」そう言われただけなのに心がかるくなりました。
しかし、直接会って話すとそんなにうまくいきません。私も父の日や母の日にプレゼントをおくりました。でも、「ありがとう。」という言葉だけがはずかしくて言えません。でも、それでもいいのではないでしょうか。両親は、それをわかっているかのように笑ってくれました。私は家族ってすごいなぁと思うようになりました。家族という存在は世界から見ると、とても小さな小さな存在です。でも私たちにとってはとても大きな存在です。友達には言えないようななやみでも、家族には話せるそういうものではないでしょうか。
みなさんの中には、口げんかの絶えない家族や仲がよくていつも一緒にいる家族があると思います。それぞれちがうけれど、家族のかたちはいろいろで、それぞれの家の幸せがあります。そんな幸せをみんなが大切に思ってくれればいいなと思っています。
みなさんは曲がったキュウリやヘタのとれたナス、キズだらけの野菜や果物をスーパーマーケットで見かけたことがあるでしょうか。きっと少ないと思います。むしろ形が良くてキズの少ない野菜、果物が売られていて当然だと思います。向日市には田や畑が多く、通学路にもあります。登校中、ふと畑を見ると、虫がかじって穴の空いたキャベツが目につきました。また、今まで見たこともないような変な形をしたナスもあり、とても驚きました。
日本人は見た目への強いこだわりがあり、大きすぎるもの、キズだらけのものは食欲をそそらないという理由で処分されてしまいます。
私が見た目にこだわったことを一つ紹介します。それは、数年前の冬休みのことです。私は祖母の家に泊まりに行きました。晩ご飯のメニューが鍋で、私は祖母の手伝いをしました。その時、
「そこにある白菜とって!」
と言われたので白菜を手に取ると、カビのような黒いはんてんがたくさんありました。私は、
「なんなんこれ!?カビ生えてるやん!」
と驚いて大声をあげてしまいました。すると祖母が、
「黒いのはうまみ成分やから、それがいっぱいあった方がおいしいねんで。」
と教えてくれました。実際に食べてみると、祖母が言っていたとおり、瑞々しくてとてもおいしかったです。
ところで、みなさんは、直売所というところを知っていますか。直売所というのは近くの畑でとれた、見た目が悪く出荷ができない野菜を売っているお店です。最近では直売所で販売する取り組みが活発になり、一万三千ヶ所以上も設置されているそうです。直売所の優れている点は、新鮮かつ低価格な野菜を手に入れられることです。さらに、農家の方々にとっても処分されるはずの野菜が一般の家庭に届くわけですから、生産者にとっても嬉しいことだと思います。
ただ、すぐに見た目へのこだわりをなくすことは難しいでしょう。しかし、キャベツに穴が空いている、ナスのヘタがとれているからといって、処分されるのはおかしいと思います。そこで私は、野菜を選ぶ基準を変えていけばいいのではないかと考えました。まず、直売所を利用してみてはどうでしょうか。たくさんの人が直売所を利用するようになれば、穴の空いたキャベツもヘタのとれたナスも、きっと当たり前の時代になると私は思います。
「勿体ない!」昔から日本でよく使われてきたこの言葉は、最近あまり耳にしなくなって来たようです。それは、時代のせいなのでしょうか?
私が最近一番「勿体ない!」と思うのは「食べ物」です。昔、明治時代の日本には、「残飯屋」というものがありました。それは、工場や料理屋からの食べ残し、さらには、監獄からの不味い飯などを引き取っては、それに値段をつけ、売る、というものです。そして、「残飯屋」でも引き取らないような腐りかけのものは家畜のえさに、食べ物は極限まで残らないようにされていました。
しかし、今はどうでしょう? 日本は、食糧自給率が40パーセントと低いのに残飯量は、世界一。年間5800万トンという食べ物を大量輸入しては、その3分の1は「残飯」として廃棄しています。また、最近は、輸入品の方が安価ですから、日本産の物は売れずに「残飯」として廃棄されてしまいます。
今、日本が「残飯大国」である一方で、世界には8億4千万人もの人達が慢性的な栄養不足に陥っています。これは、世界人口の13パーセント、つまり、10人に1人以上の割合で食料問題を抱えているという事になります。
そこで、よく考えてみてください。
「あちゃー、賞味期限切れてた…。」そのような理由で捨てられた食べ物は、今までにありませんでしたか?バイキングや食べ放題などのお店で、取りすぎて食べられなくなり残してしまうことはありませんでしたか。また、その中には、全く手をつけず、というものもありませんでしたか。
私たちが食べられないと、残したり、捨てたりした食べ物を喉から手が出るほど欲しいと思う人達がこの世界にはたくさんいます。
「食べる」ことは私たちにとって生きるための大切な行為です。食べ物は、生きるための源です。それをむやみに残したり、捨てたりしていいのでしょうか。
私は、もっともっと「食べる事」について感謝の気持ちを持つべきだと考えます。
家に帰れば食べ物があるというのは、とても幸せな事ではないでしょうか。
食べ物を粗末にしない。
その第一歩として、一度家の冷蔵庫を整理してみて下さい。これは、無駄な残飯を減らす事につながります。
計画的に食べる、食べ物に感謝する。それが、私の考える「勿体ない力(りょく)」です。