遷都後

更新日:2018年6月30日

廃す 東院から平安京

 長岡京がわが国の首都であった期間は10年です。この10年の道のりは、苦難の連続であったようです。平城京からの遷都を強行した反動を受けて、桓武天皇の片腕であり長岡京造営の最高責任者であった藤原種継が暗殺され、母を同じくする弟の早良親王が謀反を企てた疑いをかけられて廃太子となり、東北地方の支配政策も頑強な抵抗にあってゆきづまりを見せるなど政局は緊迫した状況におちいりました。また、河川が発達した利便性とはうらはらに、豪雨のたびに水害にみまわれ、諸施設の再建やライフラインの復旧作業など復興までに出費がかさみ、加えて伝染病(天然痘など)が流行するなど都は政治的・経済的に不安定な状況からぬけ出しきれず、しだいに疲弊していった様子が『続日本紀』などの文献記録からうかがえます。

 それでは、考古学からはどのように見ることが可能でしょうか。1500回を越えた長岡京の発掘では、京域の縁辺部ほど地形の制約もあってか長岡京にかかわる遺構の分布が希薄になっていく傾向があります。とくに道路側溝が不自然に途切れるところが目立つなど、造営工事を途中で止めたと考えられるところもあります。実際に長岡京が造営された範囲については、全体の6割強ほどしか達成されていないことがわかってきたのです。また、長岡京の都市計画が造営途中で変更されたようで、宅地の改造が増加したり、京域の北側では従来にない新しい基準で宅地の区画割りが行われてたりする状況が確認できます。このように長岡京は、造営が中断し、整備に遅れ、地形の制約を克服できず、都市計画の大幅な変更によって本格的な都城の造営が完全に破たんしてしまったのです。もはや、桓武天皇が理想とする都の造営は、遷都でもしなければ実現できないところまで来てしまっていたのです。これが考古学によって明らかにされた長岡京が短命におわった理由です。

 延暦12年(793年)正月15日には廃都が決定され、長岡京の解体が始まります。平安遷都までの1年9か月のあいだ東院が、臨時の内裏となりますが、平成12年(2000年)に発見された東院跡の調査では平安京内裏の原型がここで形づくられていたことがわかりました。平安京への出発は、まさにここから始まったのです。

変わる 廃都後の乙訓

 延暦13年(794年)10月、桓武天皇は長岡京を廃し、平安京に移りました。ここに長岡京は10年間の歴史に幕をおろしました。遷都で消滅した旧長岡京の都市的空間は、次第に田畝に埋もれた田園風景へと変わっていきました。

 廃都後の新たな変化は、旧京内の土地を国家機関に払い下げることから始められました。遷都翌年の延暦14年(795年)に、長岡京左京三条一坊八町、九町、十五町、十六町、二坊三町、四町、六町を勅旨所の藍圃に、三条一坊十町を近衛府の蓮池にしたことが記されています(『類聚三代格』)。

 蓮池は、中山修一が長岡京復元のポイントにしたところです。現在はJR向日町操車場となっていますが、当時はまだ湿地の名残を留めていたことがわかります。廃都後、旧条坊名で宅地跡の土地利用が具体的に記された史料はこれが初めてです。

 その後、延暦16年(797年)から弘仁3年(812年)にかけて、旧京内と乙訓郡の土地を皇族と有力な臣下に与えています(『日本後紀』)。

 一方、廃都から間もない延暦16年(797年)には、葛野郡の地勢が狭いことをあげて「長岡京南」に国府の移転が行われました(『日本紀略』)。国府は、国庁と呼ばれる中枢施設の周囲に付属する諸施設が営まれた地方の中心的官庁です。

 平安京の外港となる山崎津と淀津は、西日本や中国の唐から運ばれた物資の集積地となり、陸路と船便が行き来する交通の要衝として繁栄しました。嵯峨天皇は水無瀬や交野へ遊猟した際は河陽宮に行幸しており、しばしば遊宴が催されました(『類聚国史』)。離宮には瓦葺の殿舎や楼閣風の建物があり(『朝野群載』)、喫茶や漢詩などの唐風文化を満喫したと思われます。承平5年(935年)、土佐国司の任を終えて帰京する紀貫之は山崎津で下船、数日間滞在したあと車で「島坂」を通って平安京に帰っています(『土佐日記』)。

 平安時代前半期の遺跡は、当初は国府などの官衙施設、寺院や離宮関係を中心に顕著な遺構・遺物に限られていたものが、やがて西国街道沿いに久々相遺跡や島坂周辺の遺跡、神足遺跡、丹波道沿いの井ノ内遺跡や開田遺跡などに集落が拡がっています。新たな遺跡の出現は、乙訓に新たな開発と暮らしが始まったことを物語っています。

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