遷都前

更新日:2018年6月30日

遡る 遷都以前の乙訓

 長岡京が乙訓郡長岡村に造営される際、その予定地内に百姓の私宅が57町もあったといいますから、かなりの人が居住していたことを想像できます。

 そうした人たちの祖先が乙訓地域で生活し始めたのは、今から12,000年以上も前の旧石器時代にまで遡ります。この時代の遺跡は、石器のみが発見されている場合がほとんどで、その数もそう多くはありませんが、大枝遺跡や南栗ケ塚遺跡では人々が生活していたことがわかっています。

 そして、約10,000年余りも続いた縄文時代になると、乙訓最古の縄文土器が出土した下海印寺遺跡をはじめ、中海道遺跡や井ノ内遺跡では竪穴住居が、石田遺跡や朝日寺遺跡、開田城ノ内遺跡では土器棺墓が見つかるなど集落の数が増加しています。

 米作りや金属器の使用が始まった弥生時代では、京都盆地最古の集落である雲宮遺跡、銅鐸の鋳型が見つかった鶏冠井遺跡、玉類や石剣などを製作していた神足遺跡、大規模な墓地が見つかった下植野南遺跡、それに高地性集落の谷山遺跡や北山遺跡などいくつもの集落が各所に分布していて、耕地の開墾が除々に進むとともに人口も急増したようです。

 次の古墳時代には、五塚原古墳元稲荷古墳寺戸大塚古墳物集女車塚古墳、妙見山古墳など支配者である首長を葬った大型の前方後円墳や前方後方墳のほか、小規模な円墳や方墳で構成される山畑古墳群、福西古墳群、走田古墳群など大小様々な古墳が数多く築かれています。また、中海道遺跡、殿長遺跡、今里遺跡などといった集落がいくつも存在し、継体大王がこの地に「弟国宮」を営んだのもこの時代のことだといわれています。

 その後、律令に基づく国家の支配体制が成立した奈良時代になると、乙訓郡衙(郡役所)や乙訓園(中央の役所の出先機関)が設置され、また宝菩提院廃寺、鞆岡廃寺、乙訓寺、山崎廃寺など古代寺院も建立されています。

 以上のように、長岡京遷都以前の乙訓地域には、各時代、各種類の遺跡が数多く分布し、その中には全国的に有名な遺跡も少なくありません。それは、この地域が古くから人々が継続的に生活するための環境に恵まれた場所であったことを物語っており、そうした長く濃密な歴史をもった地に長岡京は造営されているのです。

遷る 遷都

 明治時代に古代都城を研究した喜田貞吉は、長岡遷都は歴史上最も不思議な出来事の一つ、と述べています。70余年間定着した大都市・奈良の都はなぜ棄てられたのでしょうか。

 奈良時代の後半、称徳女帝と道鏡の放縦な支配によって政治は大きく乱れていました。危機意識をつのらせた藤原百川ら貴族たちは謀って、天智天皇の孫・光仁天皇を即位させます。さらに謀って、その長男・桓武天皇を即位させます。身分が低い渡来系氏族(現奈良県に居住した和氏)出身の母をもつ桓武が天皇になれたのは、改革派の貴族らに優れた資質をみこまれ、律令政治の建て直しを託されたからといわれています。

 新しい政治を意欲的に開始した天皇は、まず最初に遷都を決断しました。遷都の一つの目的は、貴族たちを大和国、平城京の本拠地からひきはがして、新天皇の権力の下に再結集させ、政権基盤を強化すること(政治的目的)。もう一つは、水陸交通の発達した土地へ遷ることによって、全国からの税物輸送を便利にし、流通経済の発展に対応すること(経済的目的)でした。長岡京は、その条件を満足させる土地でした。

 新政府は、遷都の理論づけに、中国の「天命思想」をかかげます。古代中国では、天命にかなう新王朝は必ず新都を造営するからです。桓武天皇は父・光仁天皇即位をもって、天武系皇統から天智系皇統へ代わったことを新王朝の創始とみて、長岡新都を正統化したのです。桓武天皇は、支配の理想を、絶大な権威をもつ中国・唐の皇帝像において、政治に励みました。

長岡京遷都の計画は、2年以上の歳月をかけて周到に、しかもひそかに練られました。なぜなら守旧派に囲まれ、政権基盤の弱い新政権にとって、莫大な経費と労働力を必要とする遷都は、きわめて危険な決断だったからです。そしてついに延暦3年(784年)6月に造営が開始されるや、無用化していた聖武朝の難波宮(現大阪市)を解体し、淀川を使って運ぶという戦略を用いて、わずか5ヵ月の猛スピードで宮中心部を造り上げました。 同年11月11日、貴族・官人を従えて壮麗な行列が平城宮から遷ります。翌年5月には山背国に皇都を初めて建てたことを盛大に祝い、新京遷都を天下草創と宣言しました。

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