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令和2年度市長賞入賞作品

更新日:2021年6月29日

「おれ、よびだしになる」を読んで

 

第5向陽小学校 二年 諸江 那奈 さん

よびだしって何だろう。わたしは、だい名を読んでそう思いました。この本を読んでみると、よびだしさんは、おすもうのし合をするときにおすもうさんをよびだすやくわりの人だと分かりました。またおすもうさんだけでなく、土ひょうをつくったり、おすもうのし合があることをせんでんしたりする人だということも分かりました。

この本がおもしろいなと思ったところは、しゅ人こうの男の子が小さいころからのゆめをもちつづけ、よびだしさんになるためにいろいろなことにちょうせんしつづけたところです。

わたしにもゆめがあります。かんごしさんになるというゆめです。じつは、わたしのおばあちゃんがかんごしさんで、小さいころからあこがれていました。

おばあちゃんは、びょういんかられんらくがあると、いそいでしごとにむかいます。かんじゃさんのためにいろいろなお世話をするためです。長い時間はたらいたり、ときには夜おそくまではたらいたりすることもあるそうです。大へんそうですが、おばあちゃんが文くを言うことはありません。わたしはかんじゃさんによろこんでもらえることが、このしごとのやりがいなのだと思いました。

そんなおばあちゃんのすがたを見て、わたしもがんばっていることがあります。それはおばあちゃんのみならいです。おばあちゃんからもらったちょうしんきで心ぞうの音を聞いたり、さいけつのときにするちゅうしゃをまねしたりして、家でもれんしゅうをすることです。

もし男の子のようにかんごしさんになるゆめがかなったら、おばあちゃんのようなかんごしさんになりたいと思います。そしてわたしの子どもやまごに、かんごしさんのしごとについてそのやりがいを話したいです。

読んだ本

作品名 『おれ、よびだしになる』
作者 中川 ひろたか/文 石川 えりこ/絵
出版社 アリス館

「一がやがて百になる思い。」

 

向陽小学校 四年 高口 万結子 さん

この話は、主人公のアイサトがポリぶくろが多く捨てられている村を見て、これは大変だと思い、仲間といっしょにその捨てられたポリぶくろをリサイクルして、さいふなどを作り、村を少しずつきれいにしていきます。村の人々は、アイサト達を笑い者にする人もいれば、「きたないな。」といやな顔をする人もいます。しかし、そんな人々の中にも、さいふを買ってくれる人や、アイサトたちに協力してくれる人もいて、ポリぶくろ一枚から村をすてきなところにしていく話です。

 

この本を読んでいく中で心に残った言葉がありました。それは「一まいはやがて二まいに。それが十まいに。ついには、百まいに。」という言葉です。それは、一まいから百まいに変わることは一しゅんだからです。つまり、ゴミを捨てるのはかんたんだということです。わたしはハッとしました。ゴミを捨て、よごしていくのは、本当にかんたんだと感じました。その反対で、ゴミを集めたり、拾ったりするのは時間がかかってしまうと思いました。どうして、ゴミを道に捨てる自分勝手な人がいるのでしょう。自分のことしか考えていない人が、平気でゴミを道に捨てると「あの人、今ゴミを捨てたから、ここは捨ててもいいだろう。」と思って、捨てているのかもしれません。ゴミを捨てているのを見ている五人の人がいたとします。そうすると、一気に五まいのゴミが増えます。それが続いていきます。一まいから百まいのゴミに一しゅんにつながるのです。こんなふうにゴミが増えた村は、とても悲しみ、おこっていると感じました。

 

ですが、良い意味の言葉でもありました。アイサトがさいふを売りに行ったとき、最初はほとんどの人が笑っていました。けれど、一人の人がさいふを買ってくれました。そのとき、きせきが起きました。一人の人がさいふを買うと、一人また一人…さいふを買う人がどんどん増えていきました。だれも知らない顔をするのではなく、そこにいるだれか。そのすがたを見た別のだれかが『あなたがそうであるならわたしも』と、希望をつなげ、心を強くしていくような思いがこめられた言葉が、とてもわたしには、ひびきました。

 

良いことをよく考えて行動すれば、ゴミも少しずつへっていくと思います。そして、それを続けていくことで、良いかんきょうに変わっていくと思います。そのために、自分でできることを考えてみました。使い捨ての物をできるだけ使わず、くり返して使える物を使っていきたいと思います。また、出かけたときは、ゴミを持ち帰ります。缶コーヒーがポンと置いてあったことがあります。最初は拾うかまよったけど、ゴミばこに捨てたときは、心がすっきりしました。きっとアイサトも同じ気持ちだと感じました。

 

一まいが百まいになる。それは、物や心を豊かにしていくものだと私は思いました。

読んだ本

作品名 『ポリぶくろ、1まい、すてた』
作者 ミランダ・ポール/文 エリザベス・ズーノン/絵 藤田 千枝/訳
出版社 さ・え・ら書房

私の目指す社会

 

洛南高等学校附属小学校 五年 太田 瑛麻 さん

私は小学校一年生の時に骨折してしまいました。そのせいで二ヵ月間ずっと車椅子に乗って生活し、その後二ヵ月間松葉杖を使いました。生活が一変してとても不自由で、辛かったです。でも、その経験をしたおかげで、障害を持つ身体の不自由な人たちの気持ちが少し分かりました。さらに、私の周りには、障害を持つ人がその障害を感じざるを得ないハードルが高い場所があまりにも多いと思いました。そこで、この本を通じて自分の気持ちを人に伝えるべきだと考えました。

この本は堀田健一さんという技術者のお話です。健一さんは数々の困難にも挫けず、その人の障害に合わせて世界に一つしかない二千六百台もの自転車を作られています。

私は骨折した後、手術を受け、しばらくギプスをはめなければいけませんでした。そのため、関節が固まってしまい、歩けるようになるまでリハビリに通いました。もちろん自転車にも乗れませんでしたが考えていた以上に不便なことがありました。電車やバスなどの交通手段が使いにくいのは通学にとって大打撃でした。小さな駅の中には階段しかないところがあったり、エレベーターはあってもホームに一つしか無かったりします。ラッシュアワーに私が電車から降りて、エレベーターに向かうことができるのは沢山の人がホームから移動した後でしたが、すぐに他の電車が来てしまって人であふれてしまいます。皆自分のことで精一杯なので松葉杖をついている私は引っかかりそうで怖くて動けませんでした。車椅子が入れるトイレは大きなショッピングモールでも数少なく、移動するだけでも大変でした。小さな段差も大きく感じたり、今までの私の生活にはなかった不自由があふれてしまいました。

私の気付いた不自由は私にとっての不自由です。障害は人によって全く違うのでその人の数だけ不自由があると思います。身体の不自由な人が健常な人と同じ生活を送ることが難しいとしてもそれに近づける努力を健常な人が考えなくてはいけないと思います。それなのに、今の世の中は健常な人を中心に作られていて、身体の不自由な人を本当に理解してその人たちの為に尽力する声を挙げることが難しいように思います。そんな中、苦しい思いをしても身体の不自由な人の為に自転車を作り続けている堀田健一さんはとてもすごいです。

私の怪我は治り、今は元のように歩いたり走ったりできます。でも、中には治療してももう元に戻らない人もいます。

私は堀田健一さんのような技術者ではないので物を作ったりは出来ませんが、人に身体の不自由な人になったときの苦労や気持ちは伝えることは出来ます。いつか必ず、どんな人も自由に近い生活を送れる世の中を作るお手伝いをしたいです。また、身体の不自由な人に安心してもらえるお手伝いをしたいです。

読んだ本

作品名 『風を切って走りたい! 夢をかなえるバリアフリー自転車』
作者 高橋 うらら/著
出版社 金の星社

方丈記からのメッセージ

 

勝山中学校 二年 濱田 海 さん

今年の始まりと共にやってきた新型コロナウイルス。世界中で感染の歯止めがかからず、医療体制のひっ迫や、都市封鎖、経済の停滞などが起き、世の中が混乱している。僕の身近なところでも、マスクの着用が当たり前になり、手洗いや消毒も生活の一部となった。数ヵ月にして社会は変わってしまった。僕はこのようなことは過去にも起きたのかを知りたく、一三世紀に様々な災難を体験した鴨長明の書いた方丈記を読むことにした。

方丈記は長明が五〇代後半のときに、自分の人生をふり返って書いた随筆である。京の中心部に住んでいた長明は、火災、竜巻、飢饉、地震を体験した。方丈記には災害の原因や、現場の状況、具体的な死者数、そしてその体験が書かれている。方丈記の後半は長明が京のはずれの山に小さな家、方丈庵を建て、自然に囲まれて生活する良さや、自身の考え、人生観が描写されている。

僕は数年前に方丈記が書かれた方丈庵跡へ行ったことがある。静かな山の中で、長明が災難から逃れるためにここを選んだ理由がよく分かった。大きな岩の横に小さな小川が流れていて、美しい場所だった。僕が方丈庵に行った当時は方丈記を読んだことがなく、父にあらすじを教えてもらった。長明は激動の時代に生きていたけれど、今は大きな災害など起きないだろうと思い込んでいた。しかし今は新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るっている。方丈記にはこのような人間の誤った安心感についても書かれている。

「すなはち、人みなあぢきなき事をのべて、いささか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日かさなり、年経にし後は、ことばにかけて言ひ出づる人だになし。」

このように人間の災害へ対する恐怖は時が経てば忘れてしまうことが指摘されている。戦争も人間は何度もおかしてしまうこともこれと同じことではないか。僕は人は過去に起きた災害や戦争、過ちは、例え、自分の生きている間のことでなくても忘れてはならないと思う。人間が過ちを繰り返し、経験を生かさないことは間違っていると思う。そのためには自分も過去のことは自分のこととして学んで、誤った安心感を持たないようにしたいと感じた。

様々な災難や災害を体験した長明は、方丈記の冒頭にこう書き記している。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし。」

つまり世の中も人間も常に変化していて、変わらないものはないということだ。人間も住居もどんなに強いものに見えても、不安定と改めて感じた。僕の経験した二〇一八年の大阪府北部地震と台風二一号を思い出した。近くでも屋根にブルーシートをつけた家や、被害のあった家があった。台風ではあらゆるものが風と共に飛んでいた。僕は人生も不安定だと思う。いつ、何が起こるかは分からない。そのような人生の中では客観的に物を見る必要があると思う。

方丈記の最後の方で書かれていた次の文章だ。

「それ、三界は、ただ心一つなり。」

つまり、幸せは心の持ち方次第であるということだ。たしかに、自分も自分よりいい立場にいる人を見て自分は幸せでないと思うことがある。ただ、逆に家があること、食べ物があること、それだけでも幸せだと思う。災難が来てから、昔のありがたさが分かってはおそいと思う。人間が「今の幸せ」を見つけることは決して難しいことではないから、自分も常に今のありがたさを心に刻みたい。

方丈記と出会って今の自分や人間について考えさせられた。方丈記は今から八〇〇年も前に書かれていて、堅苦しいと感じる人も多いかもしれないけれど、書かれている内容は意外にも現代にも通じる身近なことだ。今、私たちの前には新型コロナウイルスという災難が立ちはだかっている。ワクチンはできておらず、未来は不透明だ。

「ゆく河の流れは…。」

今の私たちの人生も、河の水のように、日々変化している。だからこそ、みんなで上を見て生きていく必要性があると思う。長明は激動の時代を色々なことを考えながら生きてきた。私たちも何があっても、あきらめず、生きていけば、輝かしい未来が待っているだろう。

読んだ本

作品名 『方丈記』
作者 鴨 長明/著 山田 孝雄/校訂
出版社 岩波書店