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令和3年度教育長賞入賞作品

更新日:2022年1月12日

あたり前のしあわせ

洛南高等学校附属小学校 一年 松下 桜 さん

  一年生になってはじめての夏休み。おうちの前でプールに入ったり、おふろで水でっぽうであそんだり、たくさんの水をつかいました。わたしが住む日本では、水どうのじゃぐちをひねるとすぐにのめるきれいな水がたくさん出てきます。

  でも、アフリカでは水どうのない村がほとんどだそうです。そのため、お日さまもまだおきていない時間から、とおくはなれた川まで水をくみに行くプリンセス・ジージー。水はまい日の生かつにひつようです。おふろやトイレ、せんたくやりょうりにもつかいます。

  わたしは四人かぞくですが、一日でかぞくみんながひつような水のりょうをそうぞうしただけで、とてもおもたくて持てそうにありません。そして、せっかくくんだ水もにごっていてすぐにのめないので、わかしてきれいになるまでがまんしなければいけません。とおくの川まであるいて行くので、のどはカラカラになっていると思います。わたしは、のどがかわくとすぐにお水がのめます。れいぞうこにはジュースもあります。世界には、すぐにお水がのめない子どもたちが、たくさんいるとしってかなしい気持ちになりました。

  まい日水をくみに行くアフリカの子どもたちは、学校に行く時間もあそぶ時間もありません。わたしは水をくみに行かなくてもいいので、小学校に行ってべんきょうしたり友だちともあそべます。

  わたしがいつもあたり前にしていることは、とてもしあわせなことだとわかりました。

  たくさんべんきょうして、わたしだけじゃなくて、世界中の人がしあわせになれるような方法を考えたいと思います。

読んだ本

作品名 『みずをくむプリンセス』
作者 スーザン・ヴァーデ/文  ピーター・H・レイノルズ/絵  さくま ゆみこ/訳
出版社 さ・え・ら書房

 

わすれられないおくりもの

第4向陽小学校 三年 三品 柚結 さん

  わたしは、『わすれられないおくりもの』を読みました。なぜこの本を読んだかというと、どんなおくりものかと気になってワクワクしたからです。

  としおいたアナグマはかしこくてみんなからたよりにされていました。困っている友だちをだれでも助けてあげるくらいやさしく、知らない事はないくらい物知りで、料理やスケート、ネクタイの結び方など色々な事をみんなに教えてくれていました。そんなアナグマがある冬の日、しんでしまい、アナグマの友だちはとてもかなしみました。春が来て、みんながおたがいに行き来してアナグマの思い出を話し合っているうちに、みんなはアナグマからもらったおくりものに気付いたのです。

  わたしは、この話を読み、じいじの事だと思いました。

  わたしのじいじは、わたしが六才の時とつぜんびょう気でしにました。わたしは、じいじに料理を教えてもらい、スクランブルエッグやハンバーグが作れるようになりました。花火大会で花火がよく見えるところを教えてもらい、ひみつのとくとうせきができました。シャボン玉えきの作り方を教えてもらい、いっしょに遊びました。たくさんのお花の名前や育て方を教えてもらいました。わたしはじいじにたくさんの事を教えてもらい、色々な事ができるようになったり、色々な事を知ったりする事ができました。

  アナグマの友だちが気付いたように、私もじいじからたくさん「ちえ」というおくりものをもらっていた事に気付きました。そして、「おくりもの」というのは、目に見えたり、さわったりできるものだけではないんだなという事をこの本を読んで学びました。わたしがじいじからもらった「ちえ」というおくりものは、こわれたり、なくしたりする事のない物です。わたしはこのおくりものを、ずっと大事にしていきたいです。

  そしてもう一つ心にのこった事があります。それは、「しんで体がなくなっても心はのこる」というところです。

  わたしは、勉強がきらいで、分からない問題があるとすぐにあきらめてしまいます。そんな時、じいじにもらった手紙を読むと、がんばろうという気持ちになります。じいじは理科の先生だったので、じいじが空からおうえんしてくれてる気がして、三年生で理科をがんばりました。すると、通知表で二じゅう丸をもらえました。星がいっぱいある日はじいじが見える気がして空を見ます。これは、じいじの心がのこっているということなのかなと考えました。これからも、たくさんいやな勉強をしなければならないけれど、じいじが見てくれてると思うと、がんばれると思います。

  じいじ。わたしにたくさんのおくりものをくれてありがとう。これからもみていてね。

読んだ本

作品名 『わすれられないおくりもの』
作者 スーザン・バーレイ/さく・え  小川 仁央/やく
出版社 評論社

「人間として命の大切さを考える」

洛南高等学校附属小学校 五年 冨田 十楽 さん

  火曜日と木曜日は処分、焼却の日です。これは、私たちの地域の生ゴミ回収のことではありません。愛知県動物愛護センターに持ち込まれた成犬・子犬・成猫・子猫の「命」が「モノ」のように処分される日です。犬は年間約三千二百頭、猫は約四千頭、その大半は、元は人間に飼われていた子達です。しかし人間の勝手な都合で捨てられ、二酸化炭素ガスで息絶えた後、八百度で焼却されるのです。

  私は、本の表紙が白いかわいい子犬の写真ということだけで、この本を選びました。読み終わって再び表紙を見ると、その犬は、寂しい目をしていて、人間に何かを言いたいのではないかと感じました。それ程、本の内容は動物が好きな私にとって、とても衝撃的で「命」について考えさせられる内容だったのです。野犬撲滅対策として、一頭五百円の買取り制度を利用して、犬の命でプラモデルを買いに行く男の子。自分の犬を殺してくれと捨てに来た人が、譲渡会で飼い主を募集する譲渡用の犬を欲しいと平気で言う男性。捨てた犬の記念撮影だけをして帰っていく親子。それらがノンフィクションで書かれているので、その人達が、自分と同じ人間だと思うと恐ろしくなりました。

  私は人間として生まれましたが、もし犬に生まれていて、よく吠えてうるさいバカ犬だからという理由で、愛護センターに連れてこられてドリームボックスという名前の殺処分機で処分されることになったら、死ぬ直前まで飼い主が迎えに来ると信じて待つのだろうか。言葉で伝えることができない、吠えることでしか飼い主に伝えることができないから吠えただけなのに。人間の赤ちゃんも最初は泣くことしかできません。人間は成長して何でも出来るようになりますが、犬は飼い主がしてくれないと自分でご飯の用意もできません。だから、責任をもって最後まで世話ができる人しか飼ってはいけないと思います。

  動物愛護センターでは、犬と人間の信頼関係を築く為の飼い主の躾もしています。「捨てられる命を一頭でも減らす」為に、殺処分という業務とは反対の、動物と上手に共生するための社会を目指していく活動もしています。捨てられる命を減らす為に、犬や猫に対する正しい知識と正しい飼い方を多くの人に知ってもらうことが大切です。命の重さは人も犬も同じで、この世に、むだな命はない。灰になるために生まれてきたのではないと犬の叫びが人々に届けば、殺処分ゼロの日が来るかもしれないと、この本を通して感じました。ネットニュースで殺処分を免れた犬が、災害救助犬として活躍しているというものを読みました。人間が処分しようとした命に、人間が救われている、「むだな命」はないという証明のようです。小さい命を捨てるのも救うのも人間次第です。私は、救う方の人間でいたいと思います。

読んだ本

作品名 『犬たちをおくる日  この命、灰になるために生まれてきたんじゃない』
作者 今西 乃子/著  浜田 一男/写真
出版社 金の星社

 

「違いを乗り越えること」

寺戸中学校 三年 森山 真琴 さん

  「王子様、いってらっしゃいませ」でもそのたった一言が、僕には言えなかった。

  吃音症という一種の発達障害を持つ主人公柏崎悠太。言葉がつまってしまうことを馬鹿にされることを経験し、しゃべることをさけてしまっている。だが、少しのきっかけから放送部に入部し、優しい味方と共に人前で堂々と話せるようになる話だ。

  私はこの本を読んで、「違いを乗り越えること」について考えた。

  当事者が一番困っていることは周りにも分かる。でも、それを悠太のように発信しないとどんな風に困っているか、何を助けてほしいか分からない。本当の自分を隠すことにもつながる。支援をする人もどうしていいか分からない。人は集団では自分と異質なものを避ける性質がある。例えば学校では、みんなと同じようにしていなければ浮いてしまう。だから、困っていることを発信できないことも分かる。そして、本当の自分もつぶれていく。自分が異質だと思われてしまう環境があるからだ。そんなおかしな環境を作ってはいけない。もっと、発信しやすい環境を作るべきだと考える。当事者をあざわらったりしてはいけない。こんなこと常識だ。

  また、むやみに哀れに思うことも当事者を傷つけることになる。この話ではそういったクラスメイトが出てくる。清水くんだ。清水くんは入学式当日とても気安く話しかけてくれた。だが、悠太が吃音症だと分かったとたん「ごめんね、気安く話しかけて」と言った。私は、別に清水くんに悪気があったのではないと思う。ただ、吃音症をかわいそうに思っただけだと思う。でも、その何でもない発言に含まれる特別視する感情が当事者を傷つけてしまっている。

  この話では、励ましてくれる人、いっしょに吃音を治そうとしてくれる人、そのままの君で大丈夫と言ってくれる人など、様々な周りの人がいる。そしてその人なりに一生懸命考えて支援をしてくれる。どれも間違った支援ではない。でも、支援によっては当事者に圧力をかけることになってしまう。それは当事者に「もうしゃべりたくない」と思わせてしまう。悪循環だ。話の中に椎名先生という先生が登場する。その先生は英語の先生で生徒をたくさんあてて発言させる授業をしていた。だが、悠太が吃音症ということを知り、まったく生徒をあてない授業に変えてくれた。この時、悠太は喜んでいた。だが、私が悠太の立場なら椎名先生が授業を変えてくれたことは全然うれしくない。まるで、自分を腫物を扱うように関わられていると思う。先生が自分のためだけにみんなが関わる授業を変えてくれた。私は、たぶん「自分のせいで」と自己嫌悪になると思う。そしてまた、人前ではしゃべりたくなくなると思う。だから、周りの人はこの支援は自分がされたらどう思うか、重すぎる支援になっていないか、その人の本当の姿を否定していないかを相手の立場に立って考えるべきだと思う。清水くんと椎名先生の、悠太に吃音があるから配慮しなければいけないという上から目線の優しさが無意識に当事者を傷つけてしまっている。そして、やはり自分は話さないほうがいいのではないかと悠太を追いこんでしまう。かといって、腫物を扱うように接してもいけない。では、どう接すればいいのか。簡単なことだ。自分と対等に接すればいいだけだ。少し言葉がつまるだけで自分とはなにもかわらない中学生なのだから。

  自分と違う人と接することはすごく難しいことだ。特にハンデを抱えた人と接することは難しい。なぜならどうしても、「自分にはハンデがなくて良かった」という感情が生まれてしまうからだ。私も、時々どう接していいのかわからなくなる。だが、ハンデのある、ないという立場の違いを乗り越えれば、その人の本当の姿が見えてきてもっとすてきな世界になっていくと私は考える。その立場を乗り越えるためには、同じ人、同じ中学生として対等に接すれば良いと思う。この話の中でも、「同じ部活の仲間なんだから、フォローしあうのがあたりまえだ」という文がある。この文は、「吃音の柏崎」ではなく「部活の仲間の柏崎が偶然吃音だった」ととらえている。このように、私も立場を気にせずだれとでも対等に接していきたい。また、このようにだれとでも対等に接する人が増えていけば良いと強く思う。

読んだ本

作品名 『僕は上手にしゃべれない』
作者 椎野 直弥/著
出版社 ポプラ社